ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

輝きを待ち望んだが暗闇の中を歩む

 

 神は、契約の民イスラエルに、約束しておられたキリストを遣わされました。

 聖書には、キリストの予告がされています。

 ユダヤ人たちは、メシアを待ち望んでいました。預言者たちは、自分の目でキリストを見、自分の耳でキリストの声を聞きたいと願っていました。

 

 神は、キリストを遣わす前に、悔い改めのバプテスマを授けるバプテスマのヨハネを遣わされました。

 公義を待ち望んで律法の違反に苦しみ、律法の呪いに閉じ込められたユダヤ人たちの霊の目を、来たるべきキリストに向けさせ、神が遣わされたキリストから御救いのことばを受けるために、ユダヤ人たちを備えていたのです。

 ヨハネは、水でバプテスマを授けていました。ユダヤ人たちは、ヨハネのところに来て、水のバプテスマを受けました。自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたのです。

 

 「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。

 『まむしのすえたち。(悪魔の子ら)だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら(御怒りをのがれたいならば)、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。(パリサイ人やサドカイ人たちは、民衆のようにへりくだっていませんでした。聖書の知識のある彼らは、自分たちは御救いが約束されたアブラハムの子孫であると言って、自分たちは神の御前に出るのにふさわしい者だと考えていたのでしょう。それで、彼らは、自分のうちに罪があるとは思ってもいなかったのでしょう。神が遣わされるキリストにお会いするために、自分の罪を悔い改めて水のバプテスマを受けるためではなく、彼らは、神の裁きからのがれるために水のバプテスマを必要としていたのです)

 (自分たちの先祖はアブラハムだ、自分たちは御救いの約束を持つ契約の民だと信じている)あなたがた(パリサイ人やサドカイ人たち)に言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。(神は、契約のない無割礼の民からでも、アブラハムの信仰の子孫を起こすことがおできになるのです)

 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(ユダヤ人たちはこれから信仰を芽生えさせて育てるものではありません。すでに木は育ち、神はその実をご覧になっているのです。行ないの伴わない信仰、義の実を結ばない信仰はむなしいものです。そのように実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。神の役に立たない者だからです)

 私(ヨハネ)は、あなたがたが悔い改めるために(心を入れ替えて一心に神を見つめる者となるために)、水のバプテスマを授けていますが、私(バプテスマのヨハネ)のあとから来られる方(キリスト)は、私(民を悔い改めさせるために遣わされたヨハネ)よりもさらに力のある方です。(キリストは悔い改めさせることよりも、もっと聖なる働きをされます。キリストは、神のことばを語り、天上の性質をお与えくださる方です)私(ヨハネ)はその方(キリスト)のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

 その方(神が遣わされたキリスト)は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(御霊を与えて新しい創造と永遠のいのちを与え、神の子どもに造り変えてくださるのです)

 (キリストは)手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦(義の実を結ぶ神の子ら)を(天の)倉に納め、殻(実が育っていない殻、すなわち、信仰を持っているつもりで神の御霊に教えられていない偽りの信仰の人たち。彼らは、肉の人であって地に属する者です。天上に属する神の子どもの性質に造り変えられていないのです)を消えない火(悪魔と悪霊どものいる永遠に燃え盛る火の池)で焼き尽くされます。」(マタイ3:7-12)

 

 祭司や律法学者やパリサイ人たち、民の指導者たちは、ヨハネから水のバプテスマを受けることはありませんでした。

 

 キリストが公に現われて、神のことばを宣教されると、祭司や律法学者やパリサイ人たちは、キリストを信じることができませんでした。神が遣わされた神の子羊イエスを信じることができずに、キリストに敵対しました。

 そして、神が遣わされた神の御子イエス(ナザレのイエス)を憎み、イエスを呪って十字架につけたのです。

 

 神が遣わされた神の子羊キリスト・イエスを信じない彼らにとって、キリストは御救いの光とはなりませんでした。彼らの目は閉じ、彼らの耳はふさがり、真理を悟らない彼らにとって、キリストは彼らの永遠の呪いとなられました。

 神の御子イエスを信じない不信仰な彼らに、神は、怒りをもって誓われます。

 「決して彼らをわたしの安息(天の御国)にはいらせない。」(へブル4:3)

 

 「(律法の奴隷となって、霊とまことによって神を知らない)彼らは平和の道(神との和解の道、すなわち、神が用意された罪を贖う神の子羊イエスの血を受けて、神の御子イエス・キリストを信じる者は、神との和解が成立する)を知らず、その道筋には公義がない。

 彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者は誰も、平和を知らない。(自分の義に立って歩み、神が遣わされた者にへりくだることを知らない者は、神との平和を得ることはない)

 それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。

 私たち(神との契約を持っていると信じていた私たち、神の御救いを信じていた私たち)は、光(御救い)を待ち望んだが、見よ、闇。(御救いから遠く離れる)

 輝き(天の御国にはいるいのちの道)を待ち望んだが、暗闇の中を歩む。(公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは遠く離れている)」(イザヤ59:8,9)

 

 このみことばは、キリストが遣わされた時代の「聖書」に精通した祭司や律法学者やパリサイ人たちの上に成就しました。

 

 歴史は再び繰り返されます。

 神は、聖霊を引き上げた後に、世界を救う「油注がれた人」を立てられます。

 その油注がれた人は、霊とまことによって神を知る者たちに見いだされます。聖書を知っている者たちのほうがつまずくことでしょう。

 聖書を知らなかった人々、また、イエス・キリストを信じていなかった人々の中からも、多くの人々が、終わりの時に立つ「神に油注がれた人」に真理の光を見、従うことでしょう。

 従う人たちは、真理を求め続けていた人々です。文字ではなく、教義ではなく、自分の霊で、彼のうちに御救いの希望を見るのでしょう。

 

 すでに今から、そのための備えはされています。

 天皇家の愛子さまに、神の特別な霊性を見ることのできる人は、見分ける訓練をちゃんと受けている人です。

 メディアに影響されることなく、反ユダヤ、反イスラエルの感情を選ばない人、神が祝福するようにと命じておられるユダヤ民族、イスラエルを祝福する側にいる人たちもまた、真理を悟る霊が自分のうちに育てられていることでしょう。

 

 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 神社仏閣で手を合わせ、心を注ぎ出して祈り、心をきよめる人々の中に、真理の光、啓示の光を見分ける魂が育てられているのかもしれません。