聖書学校を卒業して、ノルウェーの宣教師のもとにいた時、神は語られました。
そこでの働きはキリスト教会の働きではなかったので、私の心は腐っていました。毎日、つぶやき、神に文句を言っていました。
神に祈る時間がたっぷりあって、神と会話する毎日でした。
キリスト教会での働きではなかったので、献身者として私はやはり召されていなかったのか、という失意と葛藤の中にいました。そして、そのことを神に訴えていました。
よくはわかりませんが、神が私を召しておられると信じていました。しかし、召されていない者としての状況が現実にありました。母教会が私を献身者として認めていないがために、ほかの教職者たちからも疎んじられていました。
「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。
しかし、あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」(ネヘミヤ2:20)
この御言葉によって、支えられていた私ですが、何を成功させてくださるのか。何の再建をするのか、はわかりませんでした。ただ、天の神が私たちを成功させてくださる、というみことばにしがみついていました。
後半の「(ネヘミヤの再建を反対する)あなたがたにはエルサレム(神によって再建する働き)の中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ」というみことばは、私に関係ないみことばだと思っていました。反対する人たちのことよりも、私自身を何とかしてください、という思いでいっぱいでした。
そんな日々を送ってしばらくすると、神が静かに言われました。
「あなたの人生をわたしにかけてみないか。」
私は、驚きました。多くの献身者がいる中で、何故、私に声をかけてくださるのだろうか。私は、教職者たちが鼻にもかけない日陰者なのに、私でいいんですか。
大勢いる中で、生まれたばかりの献身者とも呼べない未熟者の私を招かれるとは、ほかにだれかいないからでしょうか。私の中に、憐れみのような感情が湧いてきました。天地万物を造られた偉大な神に、人生をかけて仕えるしもべはほかにいないのか。何の取柄もないこんな私で良ければ、という気持ちになりました。
私は、保護者のいないみなしごのような者です。みなしごを、神が引き受けてくださるのです。
私は、「はい。私の人生をあなたにかけます。」と答えました。
クリスチャンのイロハも知らないうちに、聖書学校で学び、何とかクリスチャンらしくなろうと努めていました。
一方、「裸の王様」の童話に出て来る小さな男の子(国民のだれもがしきりに王様の衣装は素晴らしい、とほめちぎる中で、小さな男の子は自分の目に見えるまま正直に「裸の王様だ。」と叫びました)のように、正直でありたいと願っていました。しかし、それは小さな子どもだから許されることであって、大人が発言するならば、思慮のない人だと問題視され批判される事柄であると、後に知ることとなります。
人に忖度するのではなく、自分の内側に違和感がある時は、その感覚を大事にしたい、人に流されるのではなく、真理を知りたい、と願っていました。
先のことは何一つわかりません。しかし、もともと何もないのだから、失うものもありません。人生を神にかけた方が、間違いがないように思いました。
その時から、私の回りで不思議なことが起こり始めました。目に見えない霊の世界がざわざわしている感じです。
教職者たちの当たりが強くなってきました。生意気な小娘だったのでしょうか。こんなわきまえのない小娘ひとりに、何故、教職者たちは束になってかかって来るのか。
大パニックです。相談する人もいません。神に訴え、ひとりになると泣いてばかりでした。
ある時、教職者が亡くなりました。私は、怯えました。何か悪い霊が働いているのだろうか。私は、呪いの源なのだろうか。怖くて怖くてしかたがありませんでした。
目に見えないけれども、確かに恐ろしい霊が働いているのを感じました。サスペンスドラマの中にいるようでした。ひとりだけではありません。また、亡くなる人がいるのです。私は、気が狂いそうでした。
私は、神に訴えていましたが、死を望んでいたわけではありません。私に死神がついているような、自分自身をも信じられないような、ただただ恐ろしかったです。
ある時、ふと思い出したことがありました。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」
神が、このみことばを私に与えてくださっていたことを思い起こしました。
そのみことばを受けた時、神の聖徒すべてに与えられていることばとして受け取りました。しかし、神は、この約束を私個人に与えられたことに気づいたのです。
神は、死をも支配されるお方であることを悟りました。そして、神は恐ろしい方であると肝に銘じました。
そして、私は、神が本気であることを知りました。
神は本気で召しておられるのだ、と悟りました。
それからは、神に訴えるのではなく、何事も神にゆだねることを学びました。くやしい思いをすることは何度もありましたが、黙って、神にゆだねました。少しずつ、神を体験し、神を知る者とされていきました。
神は、一本気な方です。愛と赦しと慰めと憐みに満ち、大らかな方ですが、ある一線を越えたら、仁王様のような恐ろしく強い姿となり、1ミリも赦さない激しい側面をお持ちです。そういう時は、ただただひれ伏して震え上がるばかりです。
使命を受けた人は、心を神に定めましょう。
神は本気です。
失敗したら、またもとに戻ればよいという甘いものではありません。献身の覚悟を御覧になると、神も本気でその道を歩ませられるのです。
「インマヌエル」神が私たちとともにおられる、と呼ばれる神が、ともにいてくださることを体験していくことでしょう。
これらの体験を通して、私は確信をもって言えます。
ユダヤ人を憎む者、イスラエルに敵対する者は、神を敵に回しているということです。本当に恐ろしいことです。
反ユダヤ、反イスラエルの思想は、反キリストの霊であって、反キリストのかしらである悪魔から出たものなのです。
使命を受けた人は、神の御霊から真理を学んでください。自分のうちの闇に気づいたならば、日々悔い改めて、悪魔の足場となるものを自分のうちから取り除き、神に役に立つ者となりましょう。