ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

善悪の知識の木の実の呪いを解く悔い改め

 

 神が、人に食べてはならないと命じられたのは、善悪の知識の木の実です。

 善悪を知る知識の木の実を食べると、必ず死ぬからです。

 

 エバは、「善悪の知識の木の実を食べるならば、神のように賢くなれる。」と語る蛇の言葉にそそのかされました。蛇は、「善悪の知識の木の実を食べても決して死なない。」と言います。エバの心は未知の木の実に誘惑されました。

 

 人は、悪魔の存在を知らなかったのでしょうか。

 人は、ことばによって生きていました。神のことばに従っているという意識のないまま、神のことばの中にありました。ことばはことばでも、神のことばではない言葉もありました。

 

 何でもかんでも信じてよいわけではありません。すべてのことばが大切ではありません。どんなことばにも従うことが正しい道ではありません。

 神のことばによって、光が現れ、天地万物は造られました。無から有を生じさせる「いのちのことば」です。

 人は、鼻からいのちの息を吹き込まれて、生きものとなりました。神のいのちの息、すなわち、神のことばによって生きるものとして造られました。

 

 電池を電源とする器具は、アルカリ電池でなければならない物があります。マンガン電池では故障してしまいます。

 その器機に合った電源を使用しないならば、器機本体を損なってしまうということは、普通にあります。

 

 神の息によって生きものとなった人は、神のことばによって生きるものとして造られました。

 しかし、神のことばではない蛇の言葉に従った時、人は罪の呪いを負い、人に与えられた正しいいのちの機能を失いました。

 

 エデンの園の管理者としてふさわしくない者となってしまったのです。なぜならば、善悪の知識の木の実を食べて、神のことばから外れて死ぬ者となってしまったからです。

 「死」を抱える者に、いのちの管理はできません。

 罪の報酬は、「死」です。罪ある者に、正しい判断、正しい管理はできません。

 いのちはいのちを生みますが、死は死を生むのです。

 

 残酷な刑で、死者の亡骸とくくられる、という刑があったようです。亡骸の死が生きているその人のからだに入り込み、接触している部分から、肉が腐って行くのです。心臓は動き、内臓の機能にも異常はないのに、皮膚から腐って行き、生きながら屍となるのです。それは、朽ちて行く死者の腐敗と結びついているからです。

 リンゴやみかんなどの果物も、一つ腐った物が混じっていると、ほかの物まで傷んでしまいます。それと同様です。そのときは、痛んだ物を取り出すことです。

 

 さて、神のことばによって生きていた人は、神のようになろうとする善悪を知る知識の木の実を食べ、神に反逆する悪魔の言葉と結びついて、いのちの神から外れ、悪魔の死を受けました。その結果、死ぬ者となりました。

 悪魔は、神に敵対する破壊者です。いのちを与える神のようではなくて、死をもたらして腐敗を与える滅びの子です。

 

 神と悪魔が存在し、光と闇があり、いのちと死があるように、エデンの園には、いのちの木と善悪を知る知識の木がありました。

 いのちの木の実を食べる者は、永遠に生きます。

 善悪を知る知識の木の実を食べる者は、永遠に死にます。

 

 最初の人アダムは、善悪を知る知識の木の実を食べて死ぬ者となりました。人の遺伝子に、「死」がはいりました。

 

 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)

 このことは、最初の人アダムが犯した罪の結果、人類に課せられた定めです。

 なぜならば、人はみな、善悪の知識の木の実を食べた者の性質を持って生まれているからです。罪を犯す原罪を持つ肉の性質です。肉の性質は、妬み、偽証、嘘、怒り、憎しみ、争い、羨望、恨み、不品行など、自分自身の霊魂を弱らせる不健康な性質です。肉の性質を抱える人間は肉によって生き、肉は朽ちてやがて土にかえります。

 

 この肉こそ、善悪を知る知識の木の実を食べた証拠です。

 神は、善悪を知る知識の木の実を食べて死ぬ者となった人を、エデンの園から追放して、いのちの木への道を閉ざされました。

 死ぬ者となった罪人が、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないようにするためです。罪あるままで永遠に生きているのは、悪魔と悪霊どもです。

 神は、神のことばによって生きる「人」を造られたのです。悪魔の子どもを造ったわけではありません。それゆえ、神は、人に寿命を定められました。悪魔と悪霊どもとともに、永遠に生きないためです。

 

 神は、御自分の民、神の祭司の国民であるユダヤ民族に、神のひとり子をお与えになりました。死人を救う救い主であり、世の罪を取り除く神の子羊イエス・キリストです。

 

 神は、イスラエルにキリストを現わす前に、バプテスマのヨハネを遣わされました。

 ユダヤ人たちに、キリストを迎える備えをさせるためです。

 

 バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で先駆者として宣言し、教えを宣べて、言いました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

 ヨハネは、ユダヤ人たちに、神の御救いの時が近づいたことを告げました。

 それは、地上における死んで朽ちてゆく肉体の生命からの解放であり、天の御国から来られる永遠のいのちを得させるキリストの訪れを告げていました。

 

 バプテスマのヨハネは、天の御国の御救いを受けさせるために、悔い改めることを宣教しました。ユダヤ人たちは、ヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから水のバプテスマを受けました。水のバプテスマは、悔い改めた者の正しい良心の誓いです。

 

 ユダヤ人の預言者ヨナは、イスラエルの神に遣わされて、イスラエルの敵国アッシリアの都市ニネベに行き、叫びました。

 「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」(ヨナ3:4)

 

 すると、ニネベの人々はヨナの叫びを聞いて神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着ました。荒布を着るとは、神にへりくだり、罪を告白して深く悔い改めて命乞いをする姿です。

 ニネベの王にこのことが知らされると、王は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわりました。

 そして、王と大臣たちの命令によって次のような布告がニネベに出されました。

 「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。

 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。

 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」(ヨナ3:7-9)

 

 ニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった神は、ニネベに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされませんでした。

 

 悔い改めは、神の民ではない異邦人にとっても、神のあわれみと御恵みを受ける道、人が神に立ち返り、神の御前に出る唯一の道なのです。

 悔い改めがなければ、神のみことばを聞いても、真理を悟ることができません。

 悔い改めがなければ、神に受け入れられません。

 

 善悪の知識の木の実の呪いは、自分自身を神とすることです。神でないものを神として、偽りの言葉を信じて生けるまことの神に高ぶり、聖なる神の栄光を汚すことです。

 

 「もし、(自分に)罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理(神のいのち)は私たちのうちにありません。(私たち一人ひとりは、神に罪ある者だから、死が定まっているのです。死の定まっている肉なる者が、どうして、罪は無いと言えるのでしょうか。罪がなければ、罪の呪いの死もないのです。死は、罪の報酬です。)

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪(あらゆる不義)から私たちをきよめてくださいます。

 もし、罪を犯していない(罪を犯したことがない)と言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(善悪の知識の木の実を食べ自分の知識によって生きる者に、いのちの木の実を食べる資格はありません)」(ヨハネ第一1:8-10)

 

 人は、悔い改める時、善悪の知識の木の実の呪いが解かれます。意識が神に向けられるからです。悔い改めにより、神に立ち返る道が開かれます。

 

 預言者イザヤによって、

 「荒野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」(マタイ3:3)と言われたバプテスマのヨハネは、捕らえられました。

 

 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。

 『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイ4:17)

 

 悔い改めは、善悪の知識の木の実の呪いを解き、神に向きを変える唯一の道です。

 バプテスマのヨハネから水のバプテスマ(悔い改めのバプテスマ)を受けることのなかった祭司長や律法学者やパリサイ人たちは、神の子羊イエスを見てもキリストがわかりませんでした。神の御子イエス・キリストのことばを聞いても、信じることができませんでした。

 

 イエスは、すべての人に言われます。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 悔い改める人は、神が遣わした、真理のことばを語る神のしもべを知り、彼に従うでしょう。

 世の終わりに神が立てられる神のしもべは、神の羊たちをいのちの道へと導くことでしょう。