「肉のいのちは血の中にあるからである。わたし(主)はあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これ(生贄の血)をあなたがたに与えた。(あなたがたの罪の身代わりは、祭壇の上にささげられる生贄の血である)
いのちとして贖いをするのは血である。(いのちの贖いは肉によってではなく、血によってなされる)」(レビ17:11)
「すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。」(レビ17:14)
聖書は、私たちのからだを巡る血液にいのちがある、と言います。
初めの契約は、血によってされました。神の契約は、いのちの契約と言えます。いのちの契約とは、アブラハムの肉体のある間だけではなくて、その人の血統の続くかぎり、契約を結ぶ血肉の存在、そのいのちとの契約だということです。いのちをかけた契約とも言えます。
「初めの契約も血なしに成立したのではありません。
モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、『これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。』と言いました。
また彼(モーセ)は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル9:18-22)
神は、契約には血を要求されます。また、その血によって、契約者はきよめられなければなりません。
神は、アダムの犯した罪の贖いのために、すなわち、神のことばから外れた人間の贖いのために、罪を知らない神の子羊イエスの血を要求されました。神の子羊イエスの血は、一度も罪を犯したことのない全き聖なる血です。
イエスは、神が肉体を造って遣わされた神のひとり子です。神が遣わされた神の子羊は、天から来られた「全き人」です。罪を犯したことがないとは、一度も神のことばから外れたことがないということです。
アダムは、神の命令に背いて、罪ある者となりました。神が命じられた、たった一つの命令を守ることができなかったからです。神の命令に背いたアダムは、背きの子となりました。
背きの子とは、神のひとり子を妬み、神のひとり子よりも高い者になろうとして神に反逆して、神の御心に背く悪魔であり、天から追放された堕天使長です。
神のことばと一つであった時のアダムは、神の純粋ないのちが流れていました。混ざり物のない光のいのちです。
しかし、蛇の語る悪魔の言葉に聞き従って神のことばから外れたアダムは、背きの子の闇の心、死を受け取りました。悪魔の死が、アダムとエバに入り込みました。悪魔の言葉に従ったからです。
人は「ことば」と結ばれる生きものです。神のことばに聞き従う者は、いのちの根源(真理である神)に繋がり、悪魔の言葉に聞き従う者は、死と滅び(偽りの神である悪魔)に繋がります。
神のことばに支配される者は生き、悪魔の言葉に支配される者は死にます。
神のことばはいのちであり、真理であり真実です。暗いところは一つもありません。全き光です。神は、いのちを与えるいのちの主だからです。神の御子イエスを信じる人は、神のことばに立ち返る人です。神は、御霊によって語られます。
しかし、悪魔の言葉は死であり、偽りであり不真実です。真理に混ぜ物をします。蛇の口で語ったように、人間の口を通して語ります。神の御霊によらない言葉には、永遠のいのちはありません。死へと導きます。
神は、地上に、神に忠実で従順に聞き従う「人の子」(肉体に入った神のひとり子)を遣わされました。
肉なる者の罪を贖うためには、聖い肉が必要でした。「人の子」となられた神のひとり子であるナザレのイエスは、肉なる人々の罪を贖う生贄、神が用意された神の子羊でした。
神の子羊イエスは、十字架につけられました。
「キリストは、私たちのために(アダムの子孫、肉なる者の罪を贖うために)呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
なぜなら、『木にかけられた者はすべて呪われたものである。』と(聖書に)書いてあるからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(聖霊のバプテスマを授ける権威は、キリストの権威です。キリスト・イエスは、私たちの罪を贖い、聖霊を授けて永遠のいのちを得させるために、木にかけられ、そして、甦られました。ユダヤ民族に与えられた御救いの約束、また、アブラハムに与えられた祝福の基となるという約束は、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる言語の人々を救う神の御子キリストによって成就します。アブラハムの子孫、約束のキリストは、死と滅びから魂を救い出す「魂の救い主」、唯一の「救世主」です。永遠のいのちは、キリストが授けられる「真理の御霊」にあります)」(ガラテヤ3:13、14)
キリストの血は、アダムから受け継ぐ肉なる人の罪を贖いました。
キリストは、三日目に墓から甦り、死から御霊によって生まれた「新しい人」となられました。新しい人は、御霊によって死から生まれました。永遠のいのちと復活のからだの、全く新しい創造です。
「律法によれば、すべてのものは(肉のいのちである)血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ですから、天にかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれた生贄で、きよめられなければなりません。(このように、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさった生贄によって、きよめられねばなりません。〈地上のものは動物の血によってきよめられねばならないのですが、天上に入るものは、これよりもさらにすぐれた聖なる生贄の血によってきよめられなければなりません。天は、朽ちる肉なる者が入るところではありません。朽ちることのない新しいからだを着なければなりません〉キリストは人々の罪を贖うだけではなく、贖われた魂に新しい霊のからだと永遠のいのちとを得させて、神のみもとに導くために、ご自身の血を流されたのです)」(へブル9:22,23)
肉のからだのいのちは、血です。
霊のからだのいのちは、御霊です。
肉のからだの心臓は動力であって、いのちではないようです。いのちは 血にあるのです。
新しいからだのいのちは御霊であり、動力は信仰です。信仰がなければ、御霊は流れません。また、御霊がなければ、その人に、天上で生きるいのちはありません。
神の子羊イエスは、肉体を持つ「人の子」でした。肉体のいのちである人の子の血が流されると、世の罪は取り除かれて、肉の人の罪は贖われました。
肉の人の罪は、悔い改めと、神の子羊イエス・キリストの血により神に赦されて、罪の贖われた人となります。信仰によって、神に義とされます。
「いのちの書」に名前がしるされることでしょう。
地上の千年王国に招かれるでしょう。
義とされた人は、神に求めるならば、「真理の御霊」を受け取ることができます。
十字架のイエスから、復活のキリストへと信仰は進みました。肉のナザレのイエスの弟子から、死から甦られた神の子羊イエス・キリストの弟子となります。
キリストは、ご自分のいるところに私たちもおらせるために、ご自分と同じいのちを与えてくださいます。神の子羊イエスを、死から甦らせ、復活のからだをお与えになったキリストの御霊です。キリストは、御霊によって生まれた、神の子どもの初穂です。
イエス・キリストの新しいからだを巡るいのちは、血ではなく、御霊です。天上に入る新しいからだは、御霊のからだであり、御霊によって生きるのです。
復活のキリスト・イエスと一つになるためには、キリストの新しいからだのいのちである「キリストの御霊」を受け取らなければなりません。
御霊を受けることで、キリストのからだの部分とされます。御霊の流れないからだは、頭であるキリストの指令を受け取ることができません。キリスト(神のことば)と一つになることはできません。
御霊は、神の御子キリストと、御霊によって新しく生まれた人たちを「ひとりの新しい人」として、キリストを長子とする神の子どもとされるのです。
神と御子とは、神の子どもたちのために、天の御国に住まいを用意しておられます。