ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスは隠された救い主

 

  イエスが生まれ、飼い葉おけに寝ていました。ベツレヘムの宿はいっぱいで、泊まる部屋がなかったのです。そこは外から自由に出入り出来る場所だったのでしょう。

 

  御使いに、ベツレヘムで救い主キリストがお生まれになったことを告げられた羊飼い達が、御告げに従って、飼い葉おけに寝ておられるみどりごイエスを捜し当てた。羊飼い達は、見聞きしたことが全部御使いの話の通りだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った。

 

  主キリストであるというみどりごを見て、羊飼い達は、御使いがこの幼子イエスについて告げられたことを知らせた。これを聞いた人達は皆、驚いた。しかし処女マリヤは御使いガブリエルの受胎告知の通りだったので、心に納めた。

 

  イエスの誕生の折には、御使いが羊飼い達に主キリストの誕生を知らせ、天の軍勢が現れて、神を賛美して言ったのです。「いと高き所に栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 

  神は、御心にかなう羊飼い達に現れました。神殿でもなく、宮殿でもなく、大祭司や祭司やレビ人達ではなく、ユダヤ人から尊ばれない羊飼い達に現れたのです。

 

  ユダヤ人も有力者の言葉でしたら、信じるでしょうが、羊飼い達の言葉では影響されません。しかし、羊飼い達は、自分達の目で見た目撃者であり、証言者でした。主キリストと言われる幼子を見て、神を崇め賛美したのです。

 

  東方の賢者達は、星でユダヤの王が生まれたことを悟り、はるばるイスラエルの地に幼子を拝むためにやって来た。「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」ヘロデ王は、その幼子の出現を恐れた。

 

  その後、ヘロデ王は、賢者達から突き止めた時間を割り出し、ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。イエスは、この世に誕生したときから、権力者に命を狙われていたのです。

 

  東方の賢者がベツレヘムに向かって行くと、東方で見た星が現れ、その星が彼らを先導した。ついに幼子イエスのおられる所まで進んで行き、その上に留まった。

 

  その家に入って、幼子イエスを見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

  幼子イエスは、異邦人から、『ユダヤ人の王』と呼ばれ、東方の賢者達から王、油注がれた者、贖いの死を象徴する、黄金、乳香、没薬を受けたのです。

 

  不思議なことです。ユダヤ人達がイエスが十字架にかかっても尚、ユダヤ人の王として認めることなく、信じることもないのに。しかし、東方の賢者達は知っていたのです。ユダヤ人の王が生まれたことも、その幼子が、神に油注がれ贖いの死を遂げられる贖いの神の小羊であることもわかっていたようです。

 

  東方の賢者達は、星を調べ、神が造られた自然界から悟りを得て、見えない神の奥義を悟っていました。しかし、神と契約を結び、イスラエルからメシアが誕生することが昔から神に告げられていたユダヤ人達は、律法を通して神に近づく民となっており、目に見えない神の奥義を知ることが出来なくなっていました。

 

  律法は肉を育てますが、霊の思いを塞ぎます。ユダヤ人は、霊においては盲目となっていたのです。

 

  イエスは、十字架にかかってからキリストになったわけではないようです。生まれた時から、主キリストだったのです。

 

  御使いから主キリストが生まれたと告げられた羊飼い達は、自分達の目で幼子イエス見て、この方が救い主なのだ、神はイスラエルを忘れてはおられなかった。ローマ帝国の支配下で、主キリストがお生まれになった、と神を崇めたのです。

 

  東方の賢者達は、ユダヤ人の王がお生まれになったと悟って旅立ち、イスラエルのベツレヘムの地に訪れ、幼子イエスを礼拝したのです。

 

  サマリヤの井戸でサマリヤの女に声を掛けられたイエス。女は、自分の事を言い当てたイエスを預言者だと思いました。イエスのことばを聞いた女は、イエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私達に知らせてくださるでしょう。」

 

  イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 

  女は、急いで町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 

  サマリヤ人は純粋なユダヤ人ではありません。混血であり、ユダヤ人から嫌われていました。ユダヤ人からサマリヤ人に話しかけるのも不思議なことです。町の人々は、ユダヤ人であるイエスのもとにやって来ました。

 

  女の話を信じたのではなく、ユダヤ人であるイエスの話を直接聞いて、自分達で、本当にこの方(イエス)が世の救い主だとわかったのでした。

 

  この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。この世は、彼らを立てて、世に知恵を知らせます。しかし、神は、この世の知恵を退けられました。

 

  神は、王に知らせず、祭司に告げず、レビ人に現さず、律法学者やパリサイ人には開かれませんでした。この世の権力者達を退けられたのです。

 

  聞く人は、人の顔色をうかがって信じるつもりになる人ではいけません。真理をとらえ、真理を受け取る者を神は集められるのです。

 

  神は、知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。

 

  この世の知恵ある者や権力者は、自分自身の栄光にします。しかし、弱い者や取るに足りない者、見下されている者は、人々から称賛されることがありません。自分の栄光を求めません。彼らは、神を讃え、神に栄光を献げるのです。

 

  神は、神の御前で誰をも誇らせないのです。誇る者は、主にあって誇るためです。イエス・キリストが神の知恵であり、人々の義と聖めと、贖いなのです。人の正しさが義とされるのではなくて、イエスを主キリストであると信じる人が義とされるのです。

 

  神は、心の高ぶった者には、真理を隠されます。霊の目が塞がる者には理解出来ません。神は、幼子のように純真な者に、真理を表わされるのです。

 

  イエスが主キリストであることが理解できるのは、神の恵みです。

  主イエス・キリストへの信仰は、神の賜物なのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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