ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストの復活によるバプテスマ

 

 「(永遠に生きる)キリストも一度(世の)罪のために死なれました。正しい方(罪のない神のひとり子)が悪い人々(一度死ぬことと死後のさばきが定められた罪人たち)の身代わり(の生贄)となったのです。それは、肉(朽ちる肉体)においては死に渡され、霊(朽ちることのない意識の存在)においては生かされて、私たち(の霊魂)を神のみもとに導くためでした。

 その霊(朽ちることのない霊)において、キリストは捕われの霊(死の国にいる死者)たちのところに行ってみことば(救いのための福音)を宣べられたのです。(肉体は朽ちて死にますが霊魂は肉体を失っても存在しその意識は残ります。すなわち、すべての魂は記憶と感情を持ったまま死の国に存在しているのです。)

 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して(人々が自分の罪に気づき悔い改めるのを)待っておられたときに、従わなかった霊(自分の罪を認めず神に反逆したままで大洪水に滅ぼされた死者)たちのことです。わずか八人の人々(神の御告げに聞き従い箱舟を造って箱舟に入り、大洪水から救われたノアとノアの家族)が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマ(神の御子イエス・キリストを信じ罪を悔い改めて受ける悔い改めのバプテスマ〈水のバプテスマ〉)をあらかじめ示した型なのです。」(ペテロ第一3:18-21)

 

 神が遣わされた救世主キリストは、神の御子として来られたのではなく、肉体を持つ人の子として来られました。罪人の罪の身代わりとなって罪の贖いの血を流すためです。

 血はいのちです。いのちにはいのち(血)をもって贖われなければなりません。いのちが犯した罪(最初の人アダムの原罪)は、死をもたらしました。それゆえ、人はすべて生まれたときから死を背負っています。罪の報酬は死だからです。

 

 神は、世の罪を取り除く神の子羊を遣わされました。女(処女マリア)から生まれた肉体を持つ人の子イエスです。罪の生贄の子羊です。

 人には生まれたときから死と死後のさばきが定められているように、神が遣わされた神の子羊には生まれたときから死をもたらす罪の力を自分のいのち(贖いの血)をもって砕き、肉と死と悪魔に勝利して聖霊により死から甦り、復活のからだを受けて永遠に生きる新しい人となることが定められていました。

 

 キリストは、肉の人の肉を殺し、御霊にて新しく生まれる神の子どもの初穂となられたのです。

 肉の人は、肉によって生まれます。女(母の胎)から生まれる罪人です。

 御霊の人は、御霊によって生まれます。キリストの十字架の死と信仰によって結ばれ、キリストの肉体とともに肉の思いに死に、キリストが死者の中から甦られたように、キリストの御霊によって生まれる神の子どもです。

 

 肉の人は、男と女の人間の欲求によって生まれました。

 御霊の人は、神の御子イエス・キリストの信仰によって生まれるのです。

 

 キリストは墓にはいられたとき、ノアの時代の死者たちに悔い改めと救いの福音を宣べ伝えに行かれたようです。救世主イエス・キリストが現われる前の時代の死者たちの救いのためにも、キリストは働かれました。

 

 ノアの時代、地を滅ぼす大洪水から救われたのは、神の御告げに聞き従ったノアの家族だけでした。そのことは、今私たちの罪が贖われて罪を赦され火の滅びから救われると御救いの望みをおくイエス・キリストの御名によるバプテスマ(十字架につけられた主イエスが神の御子キリストであると信じて受ける水のバプテスマ)をあらかじめ示した型だというのです。

 それゆえ、イエス・キリストの御名によるバプテスマを受ける人々は、神のさばきと永遠の死と火の滅びから救われるという希望を持っているのです。

 

 神は、大洪水による世の滅びと、水をくぐって救われたノアの箱舟の史実によって、ノアの箱舟は、彼らの信仰により水をくぐって世の滅びから救い出された水のバプテスマ(信仰告白)であるとされました。

 聖書は、今の私たちに、終わりの日に起こる世の火による滅びを告げ、火(試み)をくぐり抜けて救われるイエス・キリストの御名のバプテスマ(信仰告白)による御救いが用意されていることを、ノアの箱舟の御救いを通して明らかにしています。

 

 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(ペテロ第一3:21)

 

 御救いの約束されたバプテスマは、正しい良心の神への誓いであると言っています。

 水のバプテスマによって肉体の汚れが取り除かれるものではありません。肉が死なないかぎり、肉は生きています。水のバプテスマを受けたからといって、肉の思いが取り除かれてきよい者になるのではないのです。

 バプテスマは、正しい良心の神への誓いなのです。正しい良心とは、罪を悔い改めへりくだった心です。自我を神に明け渡し、神に自分自身をゆだねることの誓いです。

 

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(イエス・キリスト)を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 

 また、御救いのバプテスマは、イエス・キリストの復活によるものです。

 ノアの箱舟の水のバプテスマは、良心を変えるものではありませんでした。原罪は処罰されておらず、罪の原理は人のうちに働き、再び、世は悪いものとなりました。

 神は、次は火で滅ぼすと決めておられます。

 

 神は、神への誓いを、水のバプテスマとまた、肉に死に御霊にて新しく生まれたイエス・キリストの復活によるバプテスマを用意しておられます。聖霊のバプテスマです。死者の中から甦られた新しい創造の初穂である、復活のイエス・キリストによるバプテスマ(信仰の誓い)です。

 死から復活する者のバプテスマです。死から復活する者、死から甦る者は、火の滅びから救われる者です。

 

 神は、新しい創造の初穂であるキリストにより、キリストの御霊を分け与えて、永遠のいのちを得させられます。

 

 「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、(父なる神、全能の)神の右の座におられます。」(ペテロ第一3:22)

 世の終わりには、キリストは、再び、地上に来られます。

 そのとき、キリストの復活によるバプテスマによって御霊を受け、新しい人に造り変えられた神の子どもたちを集められます。