「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようと決めた。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1:18-25)
当時イスラエルでは、許嫁イコール婚姻というしきたりでした。許嫁との約束を放棄することは、離縁を意味しました。このことは、律法の下にいるユダヤ人には厳粛なことです。
女が不貞を働いたことが原因ならば、男は罪に定められることがありません。しかし、その女は、石打ちの刑で罰せられなければなりません。
ヨセフは、マリアが聖霊によってみごもったということを知りました。マリアの親類のエリサベツは、マリアを祝福しました。
エリサベツは聖霊に満たされて言いました。
「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。本当に、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:42-45)
エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネは、マリアの声を聞いて、マリアの胎に宿るイエスを喜びました。胎内にいるときから、イエスは、バプテスマのヨハネの主だったのです。イエスが「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」と言われたように、主を知って生まれて来た者は、バプテスマのヨハネひとりだけです。母の胎から出る前から、また、ユダヤ人たちに主を知らされる前から、マリアの胎の子が主であることを知り、主を讃えていました。
祭司に属するマリア一族の間では、御使いによるマリアの受胎告知を、神の祝福としてとらえ、神が大いなることをされたと、神を讃えていたことでしょう。主のおことばを受け入れたマリアを祝福していたことでしょう。
しかし、夫ヨセフはユダ族の人です。幻を見たことも、神の体験もしたことがなかったことでしょう。聖霊によってみごもるなんていうことが、本当にあるのでしょうか。ヨセフ以外の子どもをみごもるとは、裏切りではないですか。
もし周囲の人々がマリアの妊娠を知ったならば、許嫁のヨセフの子どもだと思うことでしょう。しかし、ヨセフには、身に覚えがありません。もし、ヨセフの子ではないと知ったら、ユダ族の人々は黙っていません。
ヨセフは、律法に忠実な正しい人でした。みごもった許嫁をめとることはマリアの罪を受け入れることになります。聖なる神の民ユダヤ人として、罪を何事もなかったことにはできません。しかし、離縁するには、マリアの罪を明るみに出さなければなりません。
聖霊によってみごもるなんていうことが、本当にあるのでしょうか。夫のヨセフは正しい人であって、マリアを罪人としてさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと思い巡らせていました。
すると、主の使いが夢に現われて、ヨセフに告げました。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
ヨセフは、マリアに御使いが現われたことと、イスラエルの神の御計画のうちにみごもったことを信じました。マリアに告げられたとおり、ヨセフにも、その子どもの名をイエスとつけるように命じられたのでした。
ヨセフは、主の使いによって、神から、マリアの胎にいるイスラエルを贖う子救い主イエスと、イエスを産む母マリアを託されたのです。
ヨセフは、マリアを迎え入れました。そして、イエスが生まれるまでマリアに触れることはありませんでした。ヨセフは、聖霊によって宿った胎の子、罪を贖う主キリストを守りました。
イエスは、イスラエルを贖い、ご自分の民ユダヤ民族をその罪(死と滅びの呪い)から救うために、処女マリアに宿ったのです。
東方から幼子イエスを拝みに訪れた賢者たちが帰ったあとで、ヨセフは夢で主の使いのことばを受けました。
「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデ王がこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいました。(マタイ2:13-15)
夫ヨセフがいなければ、マリアも幼子も露頭に迷います。神は、神の御子イエスを産むマリアに、正しい人、夫ヨセフの覆いを用意して、保護しておられました。
ノアは、主の心にかなう正しい人でした。ノアは、神のことばを受けて、すべて神が命じられたとおりにしました。そして、箱舟に入って、洪水から救い出されました。
アブラハムは、信仰の人でした。神のお告げに従って、どこに行くのかを知らないでカランを出て、神の示される地に向かいました。アブラハムは、神の約束を信じ、主はそれを彼の義と認められたのです。
処女マリアは、受胎を告知されたとき、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、受け入れました。
マリアの夫ヨセフは、主の命じられたとおりにして、聖霊の子をみごもったマリアを迎え入れました。
神の御計画は、主のことばを信じ、従う正しい人々によって実現します。東方の賢者たちは、主の霊に動かされて、主イエスに宝物を届けました。その宝物は、エジプトに逃がした幼子イエスと母マリアとふたりを守るヨセフがエジプトで過ごすために、神が、わたしの子(神のひとり子イエス)を頼むと言って、養父に与えたもののように思えます。
モーセの律法によるきよめの期間が満ちたとき、ヨセフとマリアは、幼子を主に献げるために、エルサレムに行きました。主の律法に従い、山鳩一つがい、または、家鳩のひな二羽と定められた犠牲を献げるためだとあります。ヨセフは、貧しいユダヤ人だったのです。