ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神様の贈り物

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

 神は永遠に生きておられる方です。他の何者かによって存在する方ではなく、御自身で存在される方です。みずからが存在し、すべての存在の根源である方です。「わたしは有って在るもの」と仰せられます。

 

 たとい、存在するすべてのものが消滅しても、神は、永遠に存在し続けるお方です。太陽や星、天と地とすべてのものが造られる前から存在しておられます。それらの万物を造られたお方なのです。

 

 たとい、天地万物がなくても、神は不自由されません。神おひとりで完結されるお方だからです。

 

 神には、ひとり子がいました。永遠の昔から存在される神とともにおられる神の御子です。天地万物は、御子とともに、神が造られたのでした。天地万物の歴史は、神の存在に比べたら、ほんのわずかな時間です。

 

 天地万物は、神の御意思の中に保たれています。神が必要なし、と思われればいつでも取り除かれるものなのです。

 

 神は最後に、御子のために「人」を造られました。光も、大空も、太陽も、神のことばによって生じました。しかし、人は、塵から造られました。

 

 神(御父、御子、聖霊の三位格の神)は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられ、神みずからが人を造られました。人は、他の被造物とは異なり、神の働きを担う者、使命を持つものとして造られました。

 

 神は、太陽を造るときに、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられました。神は、太陽に昼と夜を区別し、一日間をはかるはかりとするため、また、季節を知らせ、年を数えるために、またある時には、神の時を知らせるしるしとするために、天の大空で光る物となり、地上を照らす物とされました。

 

 神は、太陽と、人には、使命を与えておられました。しかし、われわれに似るように、と神のかたちに造られたのは、「人」だけです。

 

 三位格の神格を持たれる神は、父なる神と、子なる神と、聖霊です。三位格の神が一心同体、ひとつ心の唯一の神です。人が「天の神様」と呼んでいる神です。三位格ですが、おひとりの神なのです。父なる神によって完全な調和の神です。イエス・キリストは、この完全な調和の神の、御子なる神です。御子は、神のひとり子でした。神のひとり子は、人が造られるよりずっと以前から、永遠の昔から存在しておられた神のことばでした。

 

 神のことばとともにあった人が、ずる賢い悪魔の巧妙に騙す言葉に引っかかって、神のことば(御子)から離れてしまいました。人は、御子とともにあったのです。御父、御子、聖霊の神がひとつであり、おひとりの神であるように、御子とひとつのものとなるように、人は造られました。

 

 神は、人を取り戻し、御子とひとつとするために、御子に肉体を造り、人と同じようにされ、罪を知らない御子を、罪を犯した人の代わりに罪とすることを決められました。

 

 神と離れたことのない、神とひとつ、神と完全な調和のお方(御子)を、神に逆らい神に背いた人の代わりに、神から断絶された者とすることを定められたのです。そして、彼によって、蛇の頭(悪魔)を踏み砕き、彼に、人に下された死の呪いを背負わせられたのです。

 

 この御計画は、神が立てられました。御父と御子と聖霊が立てられたのです。

 

 父なる神は、御子のために造った「人」を悪魔と死の呪いから救い出すために、御自分のひとり子を、生贄の神の子羊イエスとして、祭司の国民イスラエルに遣わされました。

 

 父なる神は、御自分の最も大切なもの、御自分のひとり子を罪の生贄として、「人」にお与えになったのです。

 

 御子なる神は、神の御計画に従って、神の子羊イエスとして、ご自分の民ユダヤ民族のうちに、「人の子」としてお生まれになりました。時間空間に縛られず、被造物を支配される御子なる神が、時間空間の拘束のある肉体の不自由の中で、ユダヤ人たちの間を歩まれました。この世の権威者たちが、天地万物に権威を持たれる神の御子を十字架につけたのです。

 

 神に従順で罪を知らない方が神に従って、人の代わりに罪とされたのです。それは、神のひとり子を救い主と信じて迎え入れ、神の子羊イエスを信じて主キリストと告白する人を、神の義とするためです。

 

 聖霊は、へりくだった御霊として、神に義とされた人のところに来て住まわれます。神の臨在であり、暗いところが一つもない、全き神の霊である御霊が、おのれで自分自身の罪も清算することのできない罪人の、卑しい土の器を住まいとしてくださるのです。

 

 父なる神は、契約を結んだアブラハムに、不妊の女で閉経後の九十歳の妻が生んだひとり子イサクを全焼の生贄として献げるように仰せられました。アブラハムは即座に従いました。死んだも同然の妻の胎から生まれたイサクです。妻サラのひとり子です。神が「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる。」とアブラハムに仰せられた、神の契約の相続人のイサクです。

 

 へブル11:19で、アブラハムは、神には人を死人の中から甦らせることもできると考えた、とあります。イサクから出る者が、神と契約を結ぶアブラハムの子孫です。それならば、イサクが死人の中に留まるはずはない、と考えたのでしょう。

 

 アブラハムは、自分の子イサクを縛り、祭壇の薪の上に置き、刀を取って屠ろうとしたその時、主の使いが天からアブラハムの名を呼び、仰せられた。

 「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに献げた。」

 

 アブラハムが目を上げて見ると、やぶに角を引っ掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは、その雄羊を取り、それを自分の子イサクの代わりに、全焼の生贄として献げた。神は、生贄を備えておられたのです。

 

 イザヤ41:8で、「わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。」と、神は、アブラハムを神の友と呼ばれました。最も大切な世継ぎのひとり子を惜しむことなく、神に献げたアブラハムは、最も大切なひとり子(御子)を世に与えた神の御思いをよく知る、神の友なのです。

 

 そして、父なる神は、最も大切なひとり子をアブラハムのすえ、ユダヤ民族に遣わし、神の用意された神の生贄の子羊イエスを、世に与えられたのです。

 

 子なる神は、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、人間と同じようになられました。そして、ご自分のいのちを罪人にお与えになりました。アブラハムのひとり子イサクは、献げられましたが、死んだわけではありません。しかし、神のひとり子イエスは罪人たちの呪いを受け、流された血と死をもって罪人の罪を贖い、いのちをお与えになったのです。

 

 聖霊なる神は、キリストの血潮で聖められたというだけで、もとは闇を愛した罪ある者、卑しき肉なる土の器(人)のうちに住まう、へりくだった御霊となられたのです。

 

 御父、御子、御霊なる神は、罪人を闇の勢力による滅びと死から救い出すために、罪に満ちた世に、聖なる御子、神の子羊イエスと、聖霊を下らせてくださったのです。

 

 神は、死に向かう闇の世に、ひとり子イエスと、聖なる御霊をお与えくださいました。それは、御子イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

 神様の贈り物は、人を愛する「愛」であり、愛した人々を永遠に生かすための「永遠のいのち」です。人には造り出すことのできないものです。天地万物を造られた神だけが、与えることのできる贈り物です。