ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

インマヌエル

 

 「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)

 

 イエスが処女マリアから生まれる約七百年前に預言された、預言者イザヤの預言です。神がイスラエルに与えると約束しておられたキリスト(メシア)のしるしは、神の霊におおわれた処女から生まれる男の子だ、と言っているのです。

 

 マリアの許嫁のヨセフは、許嫁の妻マリアの胎に宿った子どもについて、主の使いに告げられました。

 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:20,21)

 

 「イエス」とは、「ヤ―ウェ(イスラエルの神)は救いである」という意味だそうです。その当時のイスラエルでは、イエスと名づけられた男の子が多くいました。かつて日本で男の子に「太郎」という名前が一般的であったように、イエスはイスラエルで一般的な男の子の名前だったようです。

 

 ひとり子をイスラエルに遣わされた神は、処女マリアの胎の中に神のひとり子の肉体を造られました。処女マリアから生まれた人の子となった御子に、神は、「イエス」と名づけられたのです。

 

 ユダヤ人たちは「イスラエルの神は救い(イエス)」という名前を息子につけて、イスラエルが贖われること、ユダヤ人をその罪から救ってくださる救い主、ローマの圧政から救い出して下さるキリストを待ち望んでいたのでしょう。ユダヤ人たちは、神の救いを待ち望んでいたのです。

 

 処女マリアとマリアの許嫁の夫ヨセフのそれぞれに、主の御使いのことばが告げられました。「この出来事は、主が預言者を通して言われたこと事が成就するためであった。」と聖書に書かれています。(マタイ1:22)

 

 その預言者を通して言われた預言とは、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)

 

 「インマヌエル」とは、神がともにおられる、という意味のようです。「イスラエルの神は救い」と言う名前のイエスが、「神がともにおられる」と呼ばれるといわれているのです。

 

 神の御子イエスは、天地万物を造られた全能者、イスラエルの神の救いをもって、イスラエルに遣わされました。

 

 ルカ2:40に、ナザレの町で、「幼子イエスは成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」とあります。

 

 ルカ2:52では、「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された。」とあります。

 

 イエスは神に愛され、神の知恵を受けて、成長されました。神の知恵に満ちた者として成長されたようです。人にも愛されていました。

 

 神の御子イエスは、処女マリアの胎に宿ったときからずっと、父なる神とともにおられたのです。神のひとり子は、天の神であったときも、地に降りて人の子となられたときも、父なる神とずっと一緒でした。永遠の昔から父とともにおられたのです。離れた事はありません。御子イエスは、神のことばだったのです。

 

 使徒ヨハネは証言しています。

 「初めに、ことばがあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものはひとつもない。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5)

 

 「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」と創世記1:3に、天地万物を造られた有様が書かれています。「光よ。あれ。」という神のことばが神のひとり子だったようです。

 

 ヨハネの手紙Ⅰ 1:1ー3にも、書かれています。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

 

 ヨハネたちイエスの弟子が聞いていたイエスのことば、見ていたイエス、イエスの奇蹟と不思議、触れていたイエスは、父なる神とともにおられる「いのちのことば」だったのです。イエスが永遠のいのちであり、御父とともにおられる神のひとり子なのです。弟子たちは、御父と交わるイエスとともにいて、御父と御子イエスの交わりを見たのです。

 

 弟子たちは、主イエス・キリストの御霊を受けて、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入りました。ヨハネが私たちに伝えるのは、私たちも、使徒たちが体験した御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるためです。

 

 いよいよ主の時が来て、荒野で叫ぶ者の声、バプテスマのヨハネのところにやって来て、ヨハネから水のバプテスマを受けられました。水から上がられると聖霊が鳩のように天から降りて来て、イエスの上に留まられたのです。

 

 インマヌエルなるお方(キリスト)は、神の御力で多くの奇蹟や癒し、悪霊追い出し、また、死人を生き返らせました。イエスは、神がともにおられるお方です。神の救いを持って来られたお方です。

 

 イエスは、罪を赦す権威を持つ神の御子であって、神の子羊イエスの贖いの血で、罪人の罪を贖われました。神は、神の御子キリストにおいて、世を罪から救い、死から救い出してくださいます。まさに、「イスラエルの神は救い(イエス)」なのです。

 

 神がともにおられるインマヌエルなるお方(主キリスト)は、死から復活して、天に上られました。そして、地上に聖霊を注がれたのです。イエスを信じる者に御霊を授けられました。御霊もまたインマヌエルなるお方です。御霊を受けた者と、主がともにおられるのです。

 

 「イスラエルの神は救い」という名前の神の御子イエスが来られた世は、神がともにおられる(インマヌエル)世となったのです。

 

 イスラエルの神の救いは、イエスを主とする者たちに携えられて世界に広がり、世界はイスラエルの神の救いを受けて、神がともにおられる世とされたのです。