ダビデの子、ソロモンは言います。彼は、地上に生まれた誰よりも知恵ある者でした。
「空の空。いっさいは空である。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空(くう)であって風を追うようなものである。」
「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてのものは空(くう)だからである。みな同じ所に行く。すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。」
「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。」
目に見えるところに注意を向けるならば、こんな空しい心情を抱きます。
仏教の『般若心経』の中に、「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」という言葉があります。「色(しき)すなわち目に見えるもの、形あるもの、これには実質が無い。空(くう)すなわち実体の無いもの、これが目に見えている現象である」というような意味だと思います。
目に見えるところに、本質があるわけでは無く、目に見えないところに真理があるようです。
ソロモンは言います。「私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうと調べた。」その結果、すべては空(くう)である事に思い至ったようです。
天地万物を造られた神の聖書では、この世に生を受けて生きている世界そのものが、仮のものであり、本質を持つ実体では無く、目に見えない実体の影である、としています。
目に見えている肉体は、仮の姿であって、本質では無い。本来の姿は、目に見えない霊であって、魂のようです。
仮の姿は、本来の実体が現れるときに、消えて行くのです。それで、実体である魂が抜かれると、肉体は朽ちます。魂は永遠に生き、肉体は地上で生きている間だけ魂の入れものとして用意されたものなのです。
創造主を知らない人は、この地上の命、肉体が実体であると考えて、目に見える現象に心を留め、より良く目に映るように努力します。
しかし、真理を追い求めたソロモンも仏陀も、目に見える現象は影であって、真実なものは、目に見えないもののうちにある事を突き止めたのです。
目に見えるものを追い求める事は、実は空(くう)である。目に見えないものにこそ真実があり、消えることのない確かな実体がある、という真理に行き着いたのです。
キリストの霊を受けた新約聖書では「私達は、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と書かれています。
塵(肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰るという事を悟ったソロモンは言います。
「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたを裁かれることを知れ。」
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」
ソロモンは知りました。「神のなさることは、すべて永遠に変わらない。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのようにされるのは、人が神の存在を知り、神に恐れを持つようにするためである。」
創造主を知るソロモンは幸いでした。地上に存在する人間の本来の課題に辿り着いたからです。
創造主を意識しないで生きる人生は、魂に心を向けません。それで、肉体を脱ぐと何も残らないのです。その命は、空(くう)となるのです。本質の無い魂は永遠に燃える火に焼かれ、昼も夜も休むことがありません。
創造主を知る人生は、神の裁きを恐れます。そして、神が地上に遣わされた救い主神の子キリストを信じ、自分の魂をキリストにゆだねて、神が用意されたいのちの道を、もうひとりの助け主、真理の御霊とともに歩みます。いのちの本質を生きる彼らは、肉体を脱ぐと霊のからだの神の子とされて、神の御国で永遠に生きるのです。
「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」よく考え、探求し、多くの箴言をまとめたソロモンは言います。
「私が見極めて悟ったこと、結論に至った大切なことを聞きなさい。神を畏れその戒めを守れ。これはすべての人のやるべきことである。これが人間にとってすべてである。」
聖書に親しんで創造主を知り、創造主が天から地上に遣わされた救い主キリストを信じ、わが主と告白し、キリストのことばを守るならば、いのちは本来あるべき姿に回復して魂は救われるのです。
救われて永遠のいのちを受けた魂は、「空の空。すべては空」とは言いません。目に見えない神に霊の目を向けて、神の救いの御業を褒めたたえ、永遠の希望と信仰を持って、神に愛される喜びと、誰にも奪われない平安で満たされるのです。
救われた彼らには帰る場所、神の御国があるのです。神の国を目指す、永遠に価値ある人生を生きるのです。
神の御国が永遠に続く実体であり、この世の世界はやがて終わりを迎える影なのです。人間は、実体から離れて影の中でうめいているのです。永遠のいのちが実体であり、肉体の命は影なのです。