ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

死者の中から生まれた初穂

 

 「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

 

 最初の人アダムは、神が吹き込まれたいのちの息によって生きた者となりました。からだが先に造られ、あとから息が吹き込まれて生きた者となったのです。

 

 息を入れるからだが先に存在しています。

 人は、肉体が先にあり、その中に目に見えないものが入って生きる者、いのちある者となりました。しかし、最初から存在していたのは、実は、目に見えないもののほうなのです。

 

 人は、偽りを語る蛇の言葉を信じて従い、神を聖としなかったことで聖なる神から外れました。聖なる神から外れた人は、汚れてゆくばかりです。

 神は、いのちの息を吹き入れた人からいのちの息を抜き取られます。汚れは聖なる神にふさわしくないからです。

 

 聖なる神が与えるのは、いのちです。人は、神が吹き入れたいのちの息で生きた者となったのです。

 神に敵対する悪しき霊(悪魔)が与えるのは、死です。それは、聖なる神に逆らって汚すものに与えられた神の呪いです。悪魔は呪いの子、滅びの子です。

 

 すべてのものを治められる絶対的支配者、絶対的権威者は、聖なる神ただおひとりです。この方が主権を持ってすべてを治めておられます。創造も、天の法則も、定めも、神の摂理なのです。

 

 この大いなる主権者が、天使長の悪を憎み、天から追放されました。天は善なる方(神)によって治められています。悪は存在してはならないのです。聖なる天に、悪は留まることができません。

 

 天には、時間も空間も物体も何の拘束もありません。霊の世界です。混じり気の無い純真な霊です。

 天使長が神に逆らうと、天使長に統率されていた天使たちもまた、天使長の道を辿ります。神に従順でなくなります。天使長を天から追放すると、統率されていた天使たちも天使長といっしょに天から出て行きました。光(天)から出た堕天使たちは、闇に落ち、天使長は悪魔、天使たちは悪霊となりました。

 

 神が天地を創造されると、悪魔は神の被造物の主権を得ようと企みました。悪魔は、狡猾な蛇を支配下に置き、蛇を使って、最初の人アダムとエバを騙し、神のいのちから外して悪魔の支配下に入れました。

 

 アダムは、神からエデンの園の管理を命じられていました。アダムは、神の造られた被造物を支配する権威を与えられていたのです。

 悪魔は、すべての被造物の支配者である人を手中に収めることで、被造物全体を神から奪うことができました。

 

 被造物は罪を犯していないのに、アダムが罪を犯したことで、被造物全体が悪魔の支配下に入り、滅びるものとなりました。死が入ったのです。

 

 被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあります。(ローマ8:20)

 虚無とは、「空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。」(伝道者1:2)という嘆きです。「私の一生は、あなた(神)の前では、ないも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。」(詩篇39:5)という、形あるものの限界です。

 しかし、この虚無も、人の罪によるのであって、人の罪が赦されるならば、被造物も悪魔の支配から解放される希望があるのです。

 

 神は、エデンの園で、蛇に仰せられた、蛇の頭(悪魔)を踏み砕く女の子孫「人の子」を、イスラエルに遣わされました。神のひとり子が人の子となってユダヤ人の間にお生まれになったのです。

 

 神が聖書(モーセの律法、預言書、詩篇)をによって約束しておられた救い主です。キリスト(救世主)となられるお方です。

 

 神のひとり子が人の子イエスとしてユダヤ人の処女からお生まれになったとき、ダビデの町(ベツレヘム)に喜びがありました。

 

 「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿の夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが羊飼いたちのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

 御使いは羊飼いたちに言った。

 『恐れることはありません。今、私はこの民全体(イスラエル)のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』

 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。

 『いと高き所(天)に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ2:8-14)

 

 急いでベツレヘムに行って、飼葉おけにみどりごを見つけた羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。

 

 神の御心にかなう人々は、主キリストを見て罪を悔い改め、キリストの贖いの血で神と和解して、心に平和が訪れます。しかし、神を信じない人々は、主キリストを見て罪をあらわにします。キリスト・イエスを罪に定め、自分を義とします。彼らの心は怒りと憎しみと争いに支配されます。

 

 ナザレのイエスは、人が信じても、信じなくても、神が定めた主キリストでした。

 主キリストは、人の罪の贖いのために神の子羊として木に掛かられました。キリストは、私たちのために呪われた者となって、イスラエルを律法の呪いから救い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべて呪われたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

 キリストは、罪の贖いの血を流されました。民の贖いのためです。

 十字架は、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、キリストの血によって罪が贖われた私たちが、信仰によって約束の御霊を受けるためでした。

 

 キリストは十字架で肉に死に、生かす霊となられました。キリストを信じる私たちもまた、キリストの十字架で肉に死に、生かす御霊によって永遠のいのちを得る者とされます。

 

 神の御子イエス・キリストは、死者の中から最初に生まれた方です。被造物すべての初めであられた神のひとり子は、人の子となられて罪の贖いの十字架で死に、三日目に死から甦られました。

 

 神の御子イエスは、死者の中から御霊によって生まれました。キリストは、御霊の初穂です。御霊は、キリストに復活のからだを与えられました。死者の中から生まれた御霊の子に与えられる霊のからだです。

 

 死者の中から生まれた御霊の子は、神が与えてくださる復活のからだ(霊のからだ)をいただきます。彼らは、神を信じる信仰によって生まれた神の子どもです。

 肉なる者が信仰により、御霊によって新しく生まれます。新しく生まれた御霊の子らは、死者の中から生まれたキリストのからだです。キリストが頭で、御霊によって生まれた人々は、キリストのからだです。

 初穂のキリストが聖いので、からだも聖いのです。死者の中から生まれた新しい人々(御霊の子)は、新しいひとりの人(キリストのからだ)です。

 

 黙示録には、殉教者の魂の叫びが書かれています。

 「子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証(イエス・キリストの御名を否まなかった)とのために殺された人々の魂が祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまで裁きを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』

 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。』と言い渡された。」(黙示録6:10-11)

 

 ここを読むと、新しく創造される人(新しい人)は、死者の中から生まれた魂が先にあり、その魂に白い衣(復活のからだ)が着せられるようです。

 死者の中から生まれるのは、からだのない魂です。生かす御霊(キリストの御霊)によっていのちを得た聖なる魂です。聖とされた魂は、神のみもとで生きており、神の時に、復活のからだを与えられるようです。

 

 「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐を持って熱心に待ちます。」(ローマ8:23,24)

 

 すでに手にしているものを望むことはありません。すでに所有しているので、所有できたらいいな、とは思いません。

 御霊の初穂であるキリストを心にいただいている(生かす御霊がうちに住んでくださる)私たちは、私たちのからだが贖われること、すなわち、肉のからだを脱いで復活のからだ(死なない栄光のからだ)をいただき、神の子どもとしていただくことを、忍耐を持って熱心に待ち望んでいるのです。

 

 「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。神の子どもたちが現われるならば、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるからです。」(ローマ8:19,21)

 

 死者の中から生まれたキリストにつく、御霊によって新しく生まれた人々が、復活のからだをいただいて神の子どもとされるとき、被造物全体がいのちを得るのです。