ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

かしらから外れた知恵者たち

 

 イスラエル民族は、全知全能の神、天地万物を造られた創造主によって、御自身の御計画を成し遂げるために造られた民族でした。

 

 イスラエルの神は、神と契約を結ぶ割礼の民イスラエルと、契約のない異邦人とを区別されました。イスラエルは、神の目的のために、神がねんごろに語り、愛をもって持ち運び、憐れみをもって養い育てた民でした。

 

 主である神は、イスラエルに御自身のひとり子を遣わすことを定めておられました。人の罪を贖い、神に立ち返る新しい人を創造し、神の御国に納めるためでした。新しく創造する者たちを、死と滅びの世から救い出すためでした。

 

 神の救いの御計画が立てられなければ、すべての人間は、罪を犯したアダムの子孫として、悪魔に捕えられ死に囚われて、悪魔と悪霊どものために神が用意された永遠の火の池に入らなければなりません。

 

 神の憐れみは、人の救いのために、神のひとり子を犠牲にして、魂を悪魔から取り戻すことでした。イスラエルは、神と人との唯一の接点でした。このイスラエルに、神と人との仲介をされる神のひとり子イエス・キリストを遣わされるのです。

 

 この生ける神の大祭司、主キリストが地上に現われるならば、真理を明らかにし、火の池から救い出す罪の贖いの血を与え、純真な神のことばを与えて永遠のいのちを得させ、いのちの道を歩ませてくださるのです。

 

 神は、神の民イスラエルに、罪の奴隷である世から救い出し、神の用意された祝福と彼らが住まうために用意された地に導き入れることを体験させられました。

 つまり、イスラエルに、奴隷の家エジプトでの四百年間の奴隷生活と、エジプトへのさばきと、荒野での全道中子を抱くように神がイスラエルを抱き世話をして守られたこと、そして、約束の地カナン(現イスラエル)に導き入れられたこととを体験させられたのでした。

 

 イスラエルは、神の御計画のシミュレーション教材でもあったのです。神は、罪の奴隷、死の捕らわれ人であるこの世の奴隷の人々を、主キリストの贖いの血によってこの世の君の支配から救い出し、聖なる神の民として造り変えて永遠のいのちを与え、神の子らが集まる天の御国にキリストの御霊によって導き入れてくださるのです。

 

 聖なる神は、イスラエルに語っておられました。

 「あなたがたは外国、異邦人たちの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」(列王記Ⅰ 11:2)

 

 ダビデ王の子ソロモンは、神の知恵をいただいた知恵者でした。しかし、ソロモンは、神のことばに留まることなく、多くの外国人の女を愛して、彼女たちを妻として、離れることがありませんでした。

 

 「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、ソロモンの心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主とは全く一つにはなっていなかった。

 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。

 こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。

 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。」(列王記Ⅰ 11:4-7)

 

 父ダビデが聞き従ったイスラエルの神のために神殿を建てたソロモン、イスラエル王国を確立したソロモン王は、外国人の妻たちによって、かしらである主、イスラエルの神から外れました。

 

 釈尊は、自分のあとに悟りを実践する聖なる方が現れることを悟りました。その方が現れたならば、すべてのことを明らかにしてくださるはずです。この明けの明星に、すべての奥義が秘められているのです。このことを、弟子たちに語りました。

 

 それを聞いた弟子たちのうち、明けの明星こそが、お釈迦様の究極の悟りの境地であるととらえたわずかな者が、明けの明星の出現を待ち望むという道を見出しました。

 

 しかし、多くの弟子はそのことを理解しません。釈尊の教義を求めました。弟子たちに請われるままに、明けの明星の悟りの道に進むことなく、弟子たちが求める、人としてあるべき姿を諭すこととなってしまいました。

 

 釈尊は、悟りの極みまで到達したのにも関わらず、その悟りを優先せずに、目の前にいる弟子たちの懇願に応えることに費やしました。

 

 ようやく辿り着いた、生老病死からの救いのかしら(明けの明星)から外れてしまいました。

 

 主キリストの出現をイスラエルに知らせ、イスラエルを悔い改めをもって訪れの日に備えさせるために、神が、バプテスマのヨハネを立てられました。

 

 バプテスマのヨハネは、ナザレのイエスが、神の子羊であり、神の御子主キリストであることを証言しました。主キリストは、水のバプテスマを授ける方ではなく、聖霊のバプテスマを授ける方であることも、ユダヤ人たちに告げたのです。

 

 ヨハネの証言を受けて、イエスについて行った弟子たちもいました。主キリストが現れたのに、また、ナザレのイエスが主キリストであることを証言したのにも関わらず、何故、ヨハネ自身はイエスの弟子とはならなかったのでしょう。

 

 バプテスマのヨハネは弟子たちから、イエスのわざのことを聞いています。ヨハネは祭司ザカリヤの息子であり、律法に精通した者です。イエスはユダ族の人で正規の学びをしていません。イエスの弟子となった者たちもまた、無学な者たちでした。

 

 ヨハネは、弟子たちから、イエスとその一行が安息日にわざをしたことも聞いています。本当に、このイエスが神から出た人なのでしょうか。他の律法学者やパリサイ人たちのように、イエスを律法に縛りつけたいのがユダヤ人です。

 

 ヨハネが待ち望んでいた主キリスト像とは少し違うようです。病人も悪霊つきも不品行な遊女も罪人の代表のように考えられていたイスラエルです。主キリストは、癒しや悪霊からの解放や遊女の罪の赦しなどではなく、聖なる神の民イスラエルの贖いのために来られたのではないでしょうか。聖なるイスラエルが入る神の御国を携えて来られたのではないでしょうか。

 

 バプテスマのヨハネは、わからなくなっていました。弟子たちをイエスのところに送り、尋ねさせました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:19)

 

 神から告げられたごとく、聖霊が鳩のように天から下ってイエスの上に留まったのを目撃したのは、イエスご自身とバプテスマのヨハネだけでした。それを見て、ヨハネは、ナザレのイエスが主キリストであると確信したのです。

 

 神から主キリストのしるしを知らされていたのも、バプテスマのヨハネだけです。そのヨハネが、自分の体験したキリストのしるしさえも疑い始めました。

 

 バプテスマのヨハネは、イスラエルのかしらである主キリストを証言しながら、そのかしらに繋がることはありませんでした。

 

 ソロモンも、釈尊も、バプテスマのヨハネも、かしらを知りながら、かしらに繋がろうとはしませんでした。

 

 かしらから外れた知恵者たちは、知恵を持ちながら、神の救いを得ることができませんでした。彼らの心がかしらである全能者ではなく、他のものを優先したからです。