ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の羊

 

 イエスは、人の子として来られた神の御子です。人の子と言うのは、仮の姿であって、実体は、神のひとり子です。人の子として、地上に遣わされる以前は、永遠の昔から神とともにおられた栄光の主です。

 

 多くの人は、イエスを二千年程前にイスラエルに生まれた一人の人と見るかも知れません。イエスは貧しい大工ヨセフの子として育てられました。都会ではなく、片田舎のナザレで育ちました。   

 

 仏教の開祖仏陀(釈迦)は、部族国家の王子として生まれました。春の家、夏の家、秋の家、冬の家というように、季節ごとの家を持つ裕福な身分です。何不自由なく育ちました。しかし、大人になって、国民の生活を知りました。自分が今まで体験して来なかった惨めな姿です。病に苦しむ者、死んで行く者、老いてみすぼらしい者、自分が体験して来た華やかなものがそこにはありませんでした。

 

 仏陀は、目に映るものを、自分に重ねました。貧しい者も豊かな者も同じように老いてゆき、同じように死んで行くのです。誰も逃れることができません。生きるということに思いを巡らし、人間の目には羨ましい富める家を出て、普遍的な救いに至る道を求めて捜し続けました。

 

 地位のある釈迦が、その地位を捨てて、真理を探求して、悟りが開かれるに至りました。人間は、良い出身で、学を積んだ釈迦を受け入れます。

 

 イエスは、人のかたちをしていますが、本当は、人を造られた神の御子です。釈迦の生まれよりも尊い方なのです。しかも、イエスは、神の御子として、天使たちに仕えられていた方なのです。しかし、御子は神の御姿である方なのに、神の在り方を捨てることができないとは考えないで、父に従い、人間と同じようになられたのです。

 

 イエスは、人の主です。アブラハムもヤコブもダビデも、この方を「主」と呼んでいます。主が、神の子羊イエスとして、地上に来られました。

 

 羊は弱い動物です。目が弱くて遠くが見えず、目の前の草を食んでいます。群れで行動しなければ、道に迷ってしまいます。羊には、羊飼いが必要です。羊飼いが羊の群れを守り、悪い獣から守ります。

 

 人の飼い主である神の御子が、神の子羊となって、地上に来られました。神の子羊イエスは、処女マリアの胎に入る前から、ご自分の使命を知っておられました。生贄の子羊として、ご自分の羊の群れを生かすために来られたのです。死に向かう羊の群れに、ご自分のいのちを与えるために来られたのです。

 

 人は誰でも、産まれた時から、死に向かって生きています。地上の命の間に何かを成し遂げ死んで行きます。誰も死を克服することはできません。死によって、人の生涯は閉じます。

 

 しかし、霊の本性には、死が無いのです。霊は永遠に生き続けます。霊は生きているのに、肉体は朽ちて無いのです。

 

 アダムとエバをエデンの園から追放したとき、いのちの木は神が守られました。神のことばから外れ死んだ者が、死んだままで永遠に生きる者とならないように、神がいのちの木への道を閉ざされたのです。いのちの木の実を食べる者は、死んだ者ではいけません。生きる者でなければなりません。

 

 神の御子イエスは、死んだ者を甦らせていのちを与えるために地上に遣わされたのです。遣わした方は、神です。神の御子イエスの父なる神です。イエスは、人の主であって、父を主とする神の御子です。

 

 イエスは神の御子ですが、神として来られたのではなく、人間と同じようになって死ぬ者として来られました。死ぬ命も死も、神に委ね神に従順な子羊です。子羊の主である父に従い通されました。自分で判断する知恵も神の知識も持っておられるのに、それを用いられません。

 

 イエスの知識は、人からのものではありません。父なる神からのものです。この世で正規に学んでいなくても、完全な真理を正確に語る事ができました。イエスは、人間のように混ぜ物はしません。また、神のことばでご自分の価値を高めたり、自分の栄光を求めることもされません。

 

 イエスは、神のことばを語り、父なる神を知らせ、神の御国を教え、永遠のいのちを伝えました。イエスの知識は、天上のものです。神から与えられたものです。誰も反論できません。

 

 神の子羊イエスは、父を仰ぎ、父に聞き、父が与えられることばを語り、行われました。イエスのわざは、父のわざだったのです。神の子羊イエスの存在は、父のことば、父のわざそのものだったのです。

 

 そして、神の子羊は、十字架の死によって父の栄光を現わされたのです。父が地上に遣わされた神の子羊の死は、死の呪いを打ち砕く神の力でした。子羊イエスの死は、いのちの木への道を閉ざした神の怒りを、なだめるものでした。また、子羊イエスの血は、死に至らせた人の罪を贖うものでした。

 

 神の子羊の十字架の死は、神の怒りをなだめ、子羊イエスの贖いの血が死からいのちを生んだのです。父なる神も、神の子羊イエスも満足せられました。

 

 神の子羊として来られたイエス・キリストは、魂の羊飼いです。失われた魂を子羊イエスの血で買い戻して、死から救い出します。買い戻された魂は、永遠に生きる新しい創造です。

 

 新しく創造された魂は、まことの羊飼いイエス・キリストの羊です。御霊が神のために整える神の羊であり、神がイエスに与える神の羊です。

 

 イエス・キリストは、神の羊の在り方を示してくださいました。どのように従ったらよいのかわからなくなった時は、イエスがどのように父に従われたのかを見ればよいのです。

 

 イエスは、神の子羊として贖いのわざとともに、神の羊の歩み方、生き方を示されたのです。イエスが父に聞き従われたように、神の羊は、御霊に聞き御霊に従うのです。