ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

男と女 夫と妻

 

  ひとりの人は、男と女に分けられました。男と女が一体となって、ひとりの人になるという、逆説的な生き方が始まりました。この生き方は、世の終わりまで続けられます。

 

  女は、男から造られました。

 

  男は、神の似姿であり、神の栄光の現れです。女は男の栄光の現れです。何故なら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

 

  主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。

 

  最初の女、エバは、男のあばら骨から造られました。エバは、アダムのからだの一部だったのです。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたのです。そして、アダムはエバの夫となり、エバはアダムの妻となったのです。

 

  しかし、次の世代からは、あり方が変わりました。男も女も、夫を持つ妻から生まれることとなりました。アダムの子は、妻エバの胎に宿り、妻の胎から生まれ出たのです。女によらなければ、子どもは生まれないのです。男がいくら努力しても、子どもを産むことは出来ません。

 

  神の似姿である男であっても、自分のうちに子どもを宿すことは出来ません。また、女も一人では子どもを宿すことは出来ません。男と一体とならなければ、新しい生命は誕生しないのです。

 

  神は、人を男と女に造り、男と女の間に優劣ではなく、お互いのうちにはないそれぞれの特性を持ち、補い合うものとされました。互いに互いを必要とし、支え合い、助け合う関係によって、より豊かで円滑な暮らしができるようにされたのです。

 

  アダムとエバは、神が造られた一体の夫妻です。初めは、男と女でしたが、一体となる夫と妻という立場が与えられました。夫と妻は、男と女の特性を知って暮らすことで、それぞれが、お互いに守られて、より良い生き方が出来るのです。

 

  パウロは、妻たちに忠告します。

  「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ聖い生き方を彼らが見るからです。

 

  あなたがたは、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。神に望みを置く婦人は、このように自分を飾って、夫に従うのが良いのです。」

 

  パウロは、夫たちに忠告します。

  「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 

  男も女も、夫も妻も、すべては神から発しています。神のルールの中にいれば、神が守って下さいます。

 

  パウロはまた、言います。

  「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。何故なら、キリストは教会(キリストのからだ)のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

  教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」

 

  妻には、耳の痛い話です。明らかに夫が間違っていることも多々あります。間違った道を歩む夫に従っていったら、家族もろとも、さまようことになります。先が見えない不安定な生活に、心は不安でいっぱいです。自分で道を見つけ、切り開かなければなりません。

 

  しかし、夫のかしらは神なのです。妻が神に信頼して、神のことばの中に留まるならば、つまり、夫に逆らわないで従うならば、神が夫を打たれます。夫が神に信頼する妻を正しく守っていないからです。神が、人のかしらだからです。神に信頼する者を見過ごされることはありません。

 

  しかし、夫に逆らう妻に、神は手を伸べることが出来ません。神のことばの中にいない者は、悪魔の言葉の中にいる者であり、悪魔の言葉を握る妻のために、聖霊は働かれないのです。悪魔の言葉の環境にあっても、主に信頼して主を求める者は、神のことばの中にいるのです。

 

  パウロは、夫たちにも言います。

  「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

  夫は自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

  誰も自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養います。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」

 

  夫には、妻を愛することが要求されています。夫に聞き従わない妻であっても、夫を見下す妻であっても、夫は自分自身を愛するように、しかも、妻のために自分の命を与えるほどの愛で愛せよ、といわれているのです。

 

  う~ん、大変なことです。夫は、妻を愛することの責任が問われます。ほかの女性に心を奪われている場合ではないですね。最後の裁きのとき、神の御前で、どう申し開きをするのでしょうか。

 

  夫は、妻が神に受け入れられる良いものにする責任が課せられています。そのことに、熱心で忠実であった者は、たとい妻が神のもとに帰らなくても、夫は責任を問われません。夫は成すべきことをしたのです。

 

  夫と妻の関係は、特別なものです。神は、一体として見られます。

  「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

  

  それ故、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい、とパウロは言います。

  これは、神のもとに帰る、神の子らへの戒めです。神の元に帰らない滅びの子らは、自由奔放に生きます。彼らは、すでに裁かれているのです。

 

  神の子らは、神の戒めのことばを聞いて、自分の中で戦い、葛藤しながら悔い改めて、神のもとに帰るのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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