ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰により受ける新しいいのち

 

 人はみな、女(母)の胎内で命を得、母胎から生まれて来ました。

 女の初めは、エバです。エバは、悪魔をかしらとする蛇に騙され、人のかしらなる神から離れた罪人のかしらです。

 罪人はみな、このエバから生まれた者です。エバは、地上の人々(罪人)の母です。エバはアダムから取られた女です。最初の人のからだの一部分(あばら骨)でした。神に造られた最初の人は、男のアダムと女のエバに分かれたのです。

 

 エバ(女)と一体のアダム(男)は、(おのれのからだである)妻エバを愛し、エバとの道を選びました。女(あばら骨)から罪(腐敗)が入った人(アダム)は、自らエバの言葉(エバが信じた蛇の言葉)とともになって神のことばから外れ、死ぬ道を選びました。

 神のことばにへりくだらず自分の良いと思うことを選んで、かしらなる神を聖とせず義とせず、神のことばに背いて罪を犯した人は、神が置かれたエデンの園から追放されました。

 

 蛇の言葉を聞いたアダムとエバは、神のことばに疑いを持ち、神のことばを信じない不信仰と神のことばに不従順である背信の罪を犯しました。神に禁じられた善悪を知る知識の木の実を食べたその時、人のかしらは、人を造られた天の「光の神」から、光の神に天から追放された「闇の悪魔」に移行しました。

 

 最初の人が罪を犯したので、アダムとエバから生まれる人類はみな、罪の中に生まれます。男と女の間に生まれる肉体のからだの人はみな、死と死後に裁きが定められた者として、寿命を持って生まれます。すべて人は死ぬのです。だれひとりとして、永遠に生きる者はいません。生まれながら、罪の報酬の死を負っているのです。鼻から息をするもののからだは肉であり、時間とともに老化し朽ちて死んでいくのです。

 

 人は、神に似せて造られた被造物です。創造主は、人の肉体の中に、思考力や感情や意志の働きの「魂」と、天地創造以前から、すなわち、神が土の塵から人のかたちを造られる以前から存在する「霊」を入れておられます。

 神のことばのうちにあった人の霊は光であり、光の子でした。しかし、神に光から追放された悪魔の言葉の中に入ると、人の霊は真理の光を失い、闇の子となりました。

 

 光の主(神)と光を失った闇の子(人)は、決裂しました。霊は光から生まれているのに、土の器(肉体)に入って、光を失います。闇の思いが入るのです。

 

 「地は形なく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」(創世記1:1)

 神が、天地万物を造られた世界のようです。天から追放された、神に反逆する堕天使たち(悪魔と悪霊ども)の悪しき霊がうごめく闇に、神は、光を造られました。

 罪に落ちたアダムとエバの子孫もまた、罪の性質を抱える闇の淵に命を得るのです。神が造られた良心によって支えられ、それぞれの霊は人生の旅路を歩みます。

 

 魂によって良い道を求める者は、思いや感情の感覚や知識によって、宗教の道に辿り着くのかも知れません。また、この世で善とされ尊ばれる道に進むのかも知れません。

 目に見えないものを霊によって捉える者は、悪しき霊の虜とされるか、あるいは、まことの生ける神に辿り着く道を見出すのかも知れません。

 

 神から離れた人の霊魂は、光の中に入ることができません。聖なる者とならなければ、聖なる光を見ることができないのです。

 

 神に遣わされて、まことの光の世界から神のひとり子が来られました。聖なる神と罪に落ちた人(死が定まっている滅んだ罪人)とを和解させるために来られました。

 神は、神の子羊の血により罪人の罪の贖いをして罪人に赦しを与えるために、神のひとり子に肉体を造り、罪の贖いの子羊イエスとして、神の祭司の国民イスラエルに遣わされました。

 

 神が遣わされた、罪の贖いの神の子羊イエスの血は、神の怒りをなだめ、神の御心を満足させました。それゆえ、神は、神の子羊イエスの血による罪の贖いを信じる者の罪を赦され神の義とされます。

 神が義とされる者には、聖なる神の御国に入る神の子どもとされる特権が与えられるというのが、神の御計画です。

 

 いのちも死をも支配されるまことの生ける神は、滅んでいる罪人を憐れまれて、罪を犯して神の聖を侮り、聖なる天にあるものを汚した罪人に、御自身の方から和解の手を差し伸べられたのです。

 聖なる神と和解しなければ、天の御国を見ることはできません。また、聖なる天の御国には、きよい衣(罪を贖うキリストの血)を着なければ入ることができません。

 

 男と女によって生まれた肉の子どもたちは、神の子羊イエスの罪の贖いの血によって罪がすすがれ、キリストの御霊を飲んで、御霊によって新しく生まれなければなりません。

 

 イエスは言われました。

 「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5,6)

 

 神の子羊イエス・キリストの血による罪の贖いを信じて、神に自分の罪を言い表わして、神が罪を赦してくださったことを信じるならば、神はその人を義とされます。

 救い主イエス・キリストは、神に義とされた人に、キリストの御霊を授けられます。神に罪を赦された人が、もはや死に定められた肉によって歩まず、救い主キリストとともに歩むためです。

 

 御霊は神の御子イエスへの信仰のある者のところに来られます。そして、イエスが十字架で肉に死んで、聖霊によって死から復活させられたように、イエスになされたわざをその人のうちでなされます。

 すなわち、御霊によって新しく生まれさせ、肉を殺して、御霊にて生きる者としてくださいます。肉の思い、肉の感情、人(自分)の計画を打ち壊されて、イエスを主キリストと慕い、神にすがり、神により頼むとして生きる、新しいいのちを与えてくださいます。

 

 「あなたがた(イエス・キリストを信じる人々)が新しく生まれたのは、朽ちる種(血肉や肉の欲求や人の意欲)からではなく、朽ちない種(生かす御霊の信仰)からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(ペテロ第一1:23)

 

 御霊を受けるのも、御霊によって新しく生まれるのも、信仰によります。御霊は神の霊であり、信仰とともに働かれます。

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)

 

 御霊によって生まれた者は、死んでも甦る復活のからだをいただく者であり、天の御国にて生きる者です。神が、キリストの御霊によって生まれた者にお与えくださる新しいいのちは、天の御国に入る永遠の安息が約束された、しみも傷もしわもない永遠のいのちです。

 

 初めて訪れた教会で、私はイエスが神の御子だとどうしても信じられなくて、疎外感を感じました。教会の人々が霊的な喜びの中におられるのに、私ひとりがその恵みの中に入れなくて寂しい思いをしました。目に見えない霊的な壁があって、私はその中に入ることができませんでした。

 

 その壁は、信仰でした。捨てきれないこの世に心がある私は、心底信じることができませんでした。キリストだけが救いではないだろうと反発する心がありました。信仰のない私は、救いの大庭に入ることができなかったのです。

 

 宣教師ご夫妻に、イエス・キリストを信じる信仰とイエスを愛する愛が与えられるように祈っていただき、教会を離れました。

 

 神はその祈りに応えてくださいました。

 信仰により、キリストを信じ、愛する者に変えられました。

 自分の熱心や努力によって得たのではありません。まず、神が私のうちでこの世をむなしくしてくださり、救いを望む心を与えられました。そして、私の心をイエス・キリストに向けさせられたのです。キリストを救い主として受け入れると、神の愛が満ちて喜びがあふれました。そして、自分の罪を知り、神に罪を言い表わし、悔い改める者とされたのです。

 そして、別の教会で、(初めに訪れた教会は聖霊のバプテスマを否定する教会でしたが、次に訪れた教会は聖霊のバプテスマを推奨する教会でした。)水のバプテスマを受けました。

 

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:8,9)

 

 神は、信仰により、御霊をお与えくださいます。そして、御霊によって、神の御子イエス・キリストを信じ、イエスを愛する新しいいのちで生まれさせてくださいます。

 肉によって生まれた者には到底、受けることのできない、人の思いをはるかに超えた霊的な信仰です。御霊がお与えくださる信仰です。

 肉によって生まれた者の信仰は肉です。御霊によって生まれた者の信仰は霊です。

 

 イエス・キリストの御名により神から受ける御霊によって、人は新しく生まれ、御霊に導かれて、永遠のいのちを得る神の子どもに新しく創造されるのです。