ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人の救いを執り成すキリスト者

 

 アダムとエバが神のことばのうちにあったとき、彼らの心は平安でした。すなわち、神の命じられたとおり、善悪の知識を知る木の実を手に取って食べるまでは、神が置かれたエデンの園で、平安な日々を送っていたのです。

 

 平安な日々を送っていると、蛇が良からぬことを男(アダム)から取られた女(エバ)に告げました。

 神が人に禁じた善悪の知識を知る木の実は、人を神のように賢くする良い実であり、神が仰せられたように死ぬことなどない、と蛇が言うのです。

 

 平安なエデンの園の中に、死を招く木が生えていることに違和感があります。本当に善悪の知識の木の実は、食べた者が死んでしまうような危険なものなのでしょうか。

 神のように賢くさせないために、禁じているだけなのでしょうか。神は永遠に生きられるお方です。死とは無縁なお方です。エデンの園に何でそんな物騒なもの(食べると死んでしまう実がなる木)を、神は置いておられるのでしょう。

 

 神は良いお方です。人を愛し、御自身が創造されたすべてのものを慈しまれる良いお方です。

 神はエデンの園を管理するようにと、人を造り、エデンの園に置いて管理を任せておられます。神のように賢くなるならば、もっと良い管理者となることでしょう。

 

 賢くするというその木は、とても良い物としてエバの目に映りました。もっと良い事が起こりそうです。「死ぬ」なんてマイナスなイメージは消え去りました。エバは、もっと良くなることを期待して、善悪を知る知識の木から実を取って食べました。

 

 それを、アダムは、強い関心を持って見ていました。アダムの中で、その木のイメージが、死のデメリットから賢くするというメリットに移行していました。

 その木の実を食べたエバを観察していても、何の変化も見られません。やはり、死ぬことはないのだ、とアダムは判断したようです。

 

 エバから渡されたその木の実をアダムも受けて食べました。

 その時です。人の意識が変わりました。神の御前で幼子のように無邪気だったふたりは、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。

 

 善悪の知識を知る木の実は、神に向いていた意識をおのれに向かわせました。

 神の御愛を一身に受けて、神を仰いでいた人の目は、互いを見るようになりました。そして、互いの目を気にするようになりました。

 神の御愛におおわれて、何の心配もなく、安心して過ごしていたふたりに自我が芽生え、他人の目を気にして恥じることを覚えました。

 また、神に呼ばれた時、神のことばに背いたふたりは、神から隠れようとしたのです。神に良くないことをしたという思いから、神の御顔を避けて園の木の間に身を隠したのでした。

 

 神の御顔を仰いでいたふたりは、善悪の知識を知る木の実を食べると、神の御顔を避ける者となってしまいました。

 

 人は、男が先に造られ、後から男のあばら骨を取って女が造られています。あばら骨が背くだけならば、アダムは死ぬことがありませんでした。

 しかし、人のからだの本体であるアダムが背くと、人は死にました。それで、人は、いのちの神から、意識もからだも離れることとなったのでした。

 神のことば(神の命令)から外れたふたりは、エデンの園から追放されました。

 

 神はエバを騙した蛇を怒り、蛇を呪われました。

 そして、蛇の頭(悪魔)を、女の子孫である「人の子」によって踏み砕くことを宣言されました。

 女の子孫の中にアブラハムを見出された神は、アブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫に悪魔を踏み砕く「人の子」を立たせることを約束されました。

  悪魔を踏み砕く人の子とは、肉体を持つ「人」となられた神のひとり子イエス・キリストをさします。

 

 神は、アブラハムの子孫イスラエルに、神のひとり子を遣わされました。ダビデの町ベツレヘムでユダヤ人の処女マリアから生まれ、ガリラヤのナザレの町で成長されたイエスです。彼は、世の罪を取り除く神の子羊でした。

 

 「人の子」は、神の子羊イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに現われた主の使いが、「きょうダビデの町で、あなたがた(ユダヤ人)のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)と知らせた、そのみどりごでした。

 羊飼いたちは、御使いの言ったとおり、飼葉おけに寝ておられるみどりご(イエス)を捜し当て、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神を崇め、賛美したと聖書に書かれている、そのみどりごが、人となられた神のひとり子です。

 

 神は、神と契約を結んだアブラハムの子孫イスラエルに、メシアを遣わすことを約束しておられました。神の御子イエス・キリストが、そのメシアでした。

 どの世代のユダヤ人も、神が約束されたメシアを待ち望んでいました。預言者たちは、メシアを見たい、メシアのことばを聞きたいと願いながら、その時ではなかったので、神の約束を預言する預言者自身は、その預言の実現を見ることがありませんでした。

 

 長い間、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ人たちのもとに来られ、ユダヤ人たちの間を歩まれたのに、ユダヤ人たちは、ナザレのイエスがそのお方(キリスト)であることを信じることができませんでした。

 

 キリストが来られる約束を信じていた契約の民イスラエルなのに、神の御子イエス・キリストを信じる信仰がありませんでした。

 

 信仰のないものは、神の民イスラエルにふさわしくありません。イスラエルは、生けるまことの神を仰ぎ、神に聞き従うために造られた神の信仰の民なのです。

 神が聖書のことばの実現としてイスラエルに遣わされた神の子羊イエスを信じなかった不信仰なイスラエルを怒り、神は、不従順なユダヤ人たちからイスラエルの国を取り上げて、諸外国に散らされました。

 

 神の民は、信仰によって神と繋がっていなければなりません。信仰のないユダヤ人は、神から外れた罪人です。

 神の御顔を仰いでいたアダムとエバは、神のことばに背き、神の命令を守らなかった罪により、神の御顔を避ける者となってしまい、神はエデンの園から追放されました。

 神の遣わされるメシアを待ち望む信仰のイスラエルは、神の命令に背き、神が遣わされた神のひとり子(神の御子イエス・キリスト)のことばに聞き従うことをしなかったため、契約の地から外され、イスラエルの地から離散させられました。

 

 神が遣わされたキリストに繋がらないユダヤ人たちは、神のことばから外れたままです。しかし、神の御恵みによって、ユダヤ人の中にイエス・キリストに出会う者たちを起こされ、イスラエルのメシアに聞き従う者が現われました。少しずつ、神との和解が始まりました。

 

 神がキリスト・イエスを信じるユダヤ人たちの罪を赦されると、そのわずかな正しいユダヤ人たちのために、神は、イスラエル全部を赦されました。

 そして、諸国に離散していたユダヤ人たちを集め、ユダヤ人の国を、彼らの先祖の地にお与えになったのでした。

 

 神は、神のひとり子イエス・キリストを信じる正しいユダヤ人(神と繋がる信仰のユダヤ人)のために、イスラエルの国を造られましたが、イスラエルの国に帰還するユダヤ人のほとんどは、イエス・キリストを信じないユダヤ人です。

 

 イスラエルの神(天の神)と人を繋げる仲介者は、レビ人でもラビでもありません。ユダ族から出た獅子、ダビデの子キリスト・イエスが、天と地を繋げる唯一の仲介者です。

 イスラエルの国民となっても、ユダヤ人たちは神と正しく繋がっていないのです。神の御声を聞くこともないでしょう。神の御声を聞かなくて、どうして神に聞き従うことができるでしょう。神の民が神を知らないのです。

 

 心頑ななユダヤ人から離れ、キリストの福音は、救世主を待ち望んでいなかった異邦人に広まりました。

 キリストの福音を聞き、神の御子イエス・キリストの御救いを信じた異邦人は、正しい良心の神への誓いをもって、神のものとなりました。そして、約束の聖霊を受けて、神を知る者、真理を知る者とされました。

 

 メシアが与えられる約束を受けていたユダヤ人たちよりも、罪の中に死んでいた罪人の異邦人のほうが先に、神の御救いを受け、神を崇め賛美する神の子どもとされたのです。

 

 なぜ、約束のなかった異邦人が、神の御子キリストを信じることができたのでしょうか。異邦人には、ユダヤ人のような預言者はなく、神の預言のみことばも知りませんでした。ただ、神の憐れみによります。

 

 ユダヤ人たちは、神の御子キリストを信じない背信の罪で、神から外れ盲目となってしまいました。神のことばを見ているのに、ぼんやりとしか見ることができません。神が語りかけておられるのに、聞くことができません。

 

 神は、イスラエルの囲いの外にいた私たちを先に救われました。

 囲いの中のユダヤ人たちの目が開かれるように、耳が開かれるように、そのために、真理の御霊を受けることができるように、すなわち、ユダヤ人たちが長い間、憎んできたイエス・キリストこそが、イスラエルを救う唯一のメシアであることを信じることができるように、執り成すためではないでしょうか。

 

 神は、世の罪を取り除き、永遠のいのちを得させ、神の御国に入らせるために、神の御子イエスを生むイスラエルを造られました。

 神の命令(モーセのような神が遣わされるもうひとりの預言者に聞き従わなければならない)に背き、神のことばから外れた契約の民ユダヤ人が、神が遣わされた預言者(神のことばを語るイエス・キリスト)に聞き従う者となり、神のことばに繋がるように、そして、ユダヤ人が神の民イスラエルとして世界の光となり、国々の祝福の基となるように執り成すために、キリスト者は生まれたのではないでしょうか。

 

 なぜ、契約の神の民なのに、契約の無かった私たちがユダヤ人たちの救いのために執り成されなければならないのでしょうか。神の民イスラエルが世の人々のため、私たちのために執り成すのが正しいのではないのでしょうか。

 

 蛇は、ヤコブ(かかと)に噛みついているのです。蛇(神に敵対する反逆者)に噛まれたユダヤ人たちは、霊的に闇のおおいが掛けられています。

 光の主イエス・キリストを信じる信仰が踏みにじられ、信仰の芽を生やすことが難しいのです。悪魔が、悔い改める心を取り去り、神の御子イエス・キリストのことばに対して、ユダヤ人たちの心を頑なにしているのです。

 

 キリスト者は、イエス・キリストの御名によって、天の神に直接祈りを届けることができます。神は祈りを聞いてくださいます。

 キリスト者がユダヤ人の救いのために祈るならば、神は御自分の民(ユダヤ人)を祝福し、岩の心をも砕いて生ける水が湧き出る泉としてくださいます。

 そして、その生ける水はキリストに出会うユダヤ人とともに、執り成したキリスト者をも生かし、いのちの喜びに満たしてくれるのです。