ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊の子として生まれる神の子

 

  「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛をくわえなさい。」      第二ペテロ 1:5,6

 

  この聖句がどういうことを言っているのか、ヨハネやペテロやパウロのことばを使って、捉えてみましょう。

 

  イエス・キリストを信じ、御霊を受けた者は、あらゆる努力をして、信仰には良い行いを心掛けなさい。良い行いには、何が神に受け入れられることなのか、正しい知識を求めなさい。正しい知識には高ぶりは禁物です。軽はずみなことを言ったり、自分の思いを優先させてはなりません。自分を殺し、自制することを学びなさい。

 

  自制には感情をこらえ、我慢することが必要です。忍耐が身につくまで、神は何度も炉に入れ打ち直されます。忍耐には神を畏れること、敬虔を学びなさい。神を畏れることは、神にへりくだることです。

 

  敬虔には兄弟愛を増し加えなさい。互いに悪口を言い合ってはいけません。あなたがたの心の中に、苦い妬みと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような者の知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。妬みや敵対心があるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

 

  ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたら、その罪は赦されます。

 

  上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、憐れみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 

  互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、互いの間に平和を保ちなさい。

 

  兄弟愛には神を愛する愛を、より確かなものとして行きなさい。神が報いを与えられる方であることを信じて歩みなさい。隠れたところで見ておられる父が、報いてくださるのです。

 

  ですから、神の国(神が讃えられること、神の栄光)と神の義(イエス・キリスト)とをまず第一に求め続けなさい。神の国の神の子にふさわしく、いつも喜んでいなさい。主がともにおられるからです。絶えず祈りなさい。神が聞いておられるからです。すべての事について、感謝しなさい。神はあなたに、良きご計画をお持ちだからです。

 

  患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。この希望は失望に終わることがありません。

 

 

  三十年ほど前、不思議な夢を見ました。暑い日に、畳の上で横になり、うつらうつらしていた時のことです。体中に圧迫する力が加わりました。夢の中のことです。

 

  私の体が何かの吸引力で引っ張り出されるように、頭から狭いところを通って吸引されました。ゴムホースのように弾力性のある管のようなものの中を体ごと吸引されたのです。その管は、体にぴっちりとしており、体を自分で動かす事は出来ませんでした。ただ直立不動の姿のままで、真っすぐ吸い込まれて行くのです。

 

  抵抗しようと気持ちは焦りもがくのですが、体は自由になりません。頭から吸い上げられるのですが、頭が痛いというわけではありません。何か抵抗できない力が働いていることだけは分かりました。狭い管を通ることで、私の関節や骨骨はかなりの打撃を受けました。

 

  やっと管から抜け出ました。体を圧迫していた管の圧迫の力がなくなると、次第に体が形状を取り戻しました。体は、解放感を味わいました。しかし、体の痛みは残っていました。

 

  その時、目が覚めたのです。目が覚めても、しばらくは管の中にいた圧迫感の感覚と体中の骨骨の痛みが残っていました。私はただ、眠っていただけなのに、私の体は、疲労感と痛みを感じていたのです。不思議な体験でした。

 

  しばらく寝たまま考えました。何だったのだろう。リアルな夢だったなぁ。夢なのに、体中が痛い。まるで、夢ではなく、実際に夢の中の事を体験して来たかのようでした。

 

  わかったのは、私が通って来たのは、神の産道だった、ということです。聖書には、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」とあります。また、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが出来ません」とあります。

 

  人は、神の国に入るのに、水(罪の悔い改め)と御霊(自分の思いに死に、御霊の思いによって生きる信仰)によって生まれなければならないのです。生まれるためには、神の産道を通らなければなりません。かなり、痛い思いをします。

 

  自分の意思の働きがストップされます。起動できないのです。どこに向かっているのかもわかりません。自分の身に何が起こっているのかも理解できません。ただ、苦しみと痛みと自由のない圧迫に閉じ込められるのです。不安を感じる余裕はありません。ただただ痛いのです。圧迫する力に抵抗することに必死です。でも、ビクともしません。抵抗は、何の役にも立ちません。

 

  神の見えない大きな力によって、成し遂げられるのです。霊の赤ちゃんの私は、よくわからないまま、産道を通り、そこから取り上げられたのです。

 

  生まれるってことは、こういうことなのだ、と思いました。赤ちゃんが、産道を通って胎から出ると、おぎゃあ~、と激しく泣くのは、この痛みを通って来たからなのだ、と思いました。胎から出ると、神の息が入れられるので、肺が膨らみ、泣くのだなぁ。

 

  御霊によって生まれる者も、産道の痛みを通って、霊の子として誕生するのだ、と思いました。痛みは、その霊の子に、霊の子として生きていくための生きる力を身に着けさせるのでしょう。

 

  身の回りに起こる事柄や望ましくない環境や悲しい出来事も、それは、神に嫌われているのでも、退けられているのでもなく、神が霊の子として新しく生まれさせるために設けられた産道を通っているのですね。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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