ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の教会

 

  三十年以上前に、ある夢を見ました。二つの夢でした。二つの夢は違う夢でしたが、同じ内容の夢でした。

 

  創世記41章に書かれています。エジプトのファラオが二つの夢を見た。夢を解き明かす者が地下牢に居ることを知ったファラオは、使いをやって夢を解き明かすヨセフを地下牢から連れ出し、ファラオの前に立たせた。

 

  ヨセフはファラオの見た夢を解き明かした。ヨセフはファラオに告げた。「ファラオの夢は一つです。神がなさろうとすることをファラオに示されたのです。夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められているからです。」

 

  この記事から、私は、二度見た夢を神が定めておられる内容なのだ、と理解しました。しかし、意味が分かりませんでした。古いものが壊れて新しいものが現れるということは分かりましたが、具体的に何のことを言っているのかまでは、わかりませんでした。しかし、その夢は今でも鮮明に覚えています。私の脳裏から離れたことはありません。

 

  一つの夢は、大きく立派な古い木造の家が激しく揺れたかと思うと、一瞬で崩れ落ちました。壁も屋根も柱もバラバラに崩れ、跡形もなくなりました。しかし、よく見ると、その崩れ落ちた木造の家の中に、真っ白で頑丈な平面屋根の四角い小さな家が建っていたのです。

 

  外からは木造の家の中に、もう一つの家があることはわかりませんでした。大きな木造の家が崩れ落ちた時に、中にあった小さな新しい白い家が現れたのです。

 

  白い家は、どんな揺れにもビクともしない、頑丈な家でした。シェルターのように命を守る家です。いつの間にこの白い家は造られていたのでしょう。古い大きな木造の家の中に密かに造られていたようです。

 

  木造の家がキリスト教会であることは分かりました。しかし、まばゆいばかりの白い家が何なのかはわかりませんでした。木造の教会が一つの地方教会ではなく、世界中の教会が一つとなった姿であることが、今ではわかります。

 

  白い家は、キリスト教会の中に形成されていました。どんなに激しい揺れにもビクともせずに立ち続ける不動の家です。キリスト教会と同じ敷地にありながら、揺り動かされることはありません。

 

  十年ほど後に、イリエ・コロアマという多くの神の奇跡を体験している人が講師のセミナーに参加しました。イリエさんが天上で見て来たことを話されました。過去の体験でした。その体験された当時は、コンピューターは一般的なものではありませんでした。セミナーで語られた頃には、コンピューターは一般的なものになっていました。

 

  ですから、それがコンピューターだと表現することが出来ました。天上では数えることが出来ないくらい大勢の人々がいました。多くの御使いもいます。コンピューターようなもので処理された記録をもとに、御使い達は、目にも止まらぬ速さでそこにいる人々を七つのグループに分類していくのです。

 

  七つのグループに分けられた人々には、それぞれのグループで首にメダルのような物がかけられていきます。これも御使い達の働きです。御使い達はすごいスピードでやり遂げていきます。

 

  そのメダルのような物には、ひとりひとり番号が書いてありました。名前ではなく、番号で集められるようです。

 

  天上でイリエさんが見た光景は、黙示録1~3章に書かれている七つの教会のことだと後になってわかりました。神の御国に入る教会は、御座におられる七つの御霊が治めておられる、七つの教会です。復活の主の右の手には、七つの星があり、七つの金の燭台の間を歩いておられます。主は、七つの御霊とともにおられます。

 

  七つの燭台は七つの教会、七つの星は七つの教会の御使い達である、と黙示録1:20にあります。

 

  この七つの教会は、神の御国に入る教会です。永遠に生きる教会です。七つの御霊によって、新しく生まれ、御霊に教えられ霊の子として育てられた、神の子の教会です。

 

  わたしがかつて見た、白い頑丈な家は、この七つの教会のことである、と今ではわかります。

 

  肉の父母のもとで育てられ、家族を体験します。父がどういう存在で位置づけのものであるかを知り、父に対して、子どもとしての学びをします。

 

  この肉の家族で得た体験をもとに、キリストの十字架の血で神に立ち返った者は、神を父とする霊の家族の歩みを始めるのです。

 

  キリストのからだとされるキリスト教会の中で、神のことばに養われ、神の子としての学びをしていきます。

 

  キリスト教会で、御霊によって新しく生まれた者は、肉の視力が衰え霊の目が開かれたサウロ(パウロ)のように、霊の目で見、神の声に耳を澄ませ、神の御思いを探るようになります。

 

  御霊によって生まれた者は、人間的な標準でキリストを知ろうとはしません。御霊によって知ろうとします。御霊に教えられることを喜びます。このことがクリスチャンのうちで起こっているのです。

 

  外から見たらわからないですが、内面で起こっていることです。御霊とともにある人は、キリストのように、十字架を負う歩みをします。肉的にあるいは霊的に困難な歩みです。苦しみや悲しみや痛みや孤独を伴う歩みです。そこから逃げ出す人もいます。御霊がともにおられなければ耐えられるものではありません。

 

  諦めることなく、その道を歩み続ける忍耐の人が辿り着いたのが、七つの霊的な教会です。同じ地方教会に属していても、その霊的な教会に辿り着く人は多くはありません。彼らが通った道こそがいのちの道なのです。多くの人は、自分の命を守って、命を捨てるいのちの道を選ぶことが出来ないのです。

 

  いのちの道を歩むことが出来るのは、御霊とともに居る人です。何故ならば、御霊は真理を知り、真理へと導く、助け主だからです。真理の御霊は、キリストの御名によって遣わされた助け主なのです。

 

  御霊は、霊的な七つの教会を、神の子羊である復活のキリストのために創造されているのです。この御霊の教会こそが、永遠に生きるキリストのからだなのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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