ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

気づくこと

 

  「嘲る者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。

  嘲る者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。

  知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」

 

  (良かれ)と思って言ったことが、良い方向に向かわないことは、この世の常です。すべての人が、良いことを望んでいるわけでは無いからです。

 

  破壊的なことを喜ぶ人達もいます。そんな人に真っ当なことを言って、受け入れられるはずがありません。かえって、歯向かってきます。正しいことに興味無いからです。正しいことに虫唾(むしず)が走るからです。

 

  しかし、正しいことを愛する人は、指摘された時は反発しても、後になって、「あの指摘は正しかった。あの指摘がなければ、自分は気づかずにいただろう」と、気づくことが出来たことを感謝します。

 

  同じように指摘されても、受け取る側の考え方、生き方で捉えどころが違います。

 

  神がみもとに集めようとしておられる神の子は、気づく生き方を望む人です。

 

  気づくためには、体験も必要です。

 

  電車の中でリュックサックを背負っている人の後ろに立った事のある人は、リュックサックの覆い塞ぎ、圧迫するような強い痛みを体験しています。後ろで痛み悶えている人を振り返って、リュックサックを背負った人は、自分の後ろで動くな。リュックサックが背中に圧迫されて痛いではないか、と言わんばかりに睨み付けます。

 

  ある時、気づきました。満員電車の中でリュックサックを背負っている人は、後ろにいる人が痛い思いをしている事に気づいていないのだ、ということです。たぶん、自分自身がリュックサックを背負っている人の後ろに立って、痛い思いをした事が無いのだ、と思いました。

 

  自分自身が体験していない事を体験したかのように想像するには、想像力が必要です。想像力は、自分自身の体験が積み重なって構築されていくもののように感じます。数々の体験が組み合わさって、応用されます。体験が無いと感じる事が出来ず、感じられない事は分からないのです。また、愛が無いと想像力は育ちません。

 

  痛みを体験して、相手の痛みが分かる人になるのでは無くて、あの痛い体験に怒り、仕返しのつもりで自分もリュックサックを背負っている人もいるのかも知れません。そういう人は、問題外です。

 

  自分のことだけを主張する人に、忠告するならば大変なことになります。

 

  気づくことは、その人自身の問題です。本人がそうだ、と思うまでは、何も変わりません。私達は、自分自身の人生に責任を負っています。他人の人生に責任を負っているわけではありません。

 

  人の振り見て我が振り直せ、ではないですが、自分の周りにあるもの、起きることは、自分の鏡でもあるのです。

 

  気づくことは、その人の財産です。他人に忠告する人が気づきの人か、と言ったらそうでもありません。自分自身のことを気づくことが出来るのが、知恵ある人だと思います。

 

  知恵ある者は思慮に欠けた者に「わきまえの無い事を捨てて、生きなさい。悟りのある道を、真っ直ぐに歩みなさい」と言います。しかし、彼らは、向き直って引き裂きます。

 

  神の子イエスは、「わきまえの無い者は誰でも、来なさい」といわれます。わきまえの無い者に知恵を授けるために、招かれます。

 

  神は、人の子らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされます。人は何も獣にまさっていません。みな死んで同じ所に行くのです。

 

  人はよみに定められて、羊のように導かれ、死が彼らの羊飼いとなります。彼らのかたちは無くなり、よみがその住む所となるのです。

 

  しかし、神は神の子イエス、神の子羊の血によって、よみの手から買い戻された魂を受け入れ、神の国が彼らの住まいとなるのです。

 

  「誰が知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを」と聖書にあります。

 

  イエスのもとに行っても、気づくことがなければ、変わることはありません。また、気づくことが無ければ、イエスのもとに行くことも無いでしょう。

 

  自分が肉の欲のまま生きる獣のようである事に気づかなければ、何も始まりません。獣のようである事を恥じることはありません。皆、同じですから。

 

  気づくことは、救いの始まりの一歩です。自分を責めてもむなしいだけです。そうすることが、よみと死からの解放にはならないからです。

 

  イエスはいわれます。「わきまえの無い者は来なさい。」

 

  自分が愚かでわきまえの無い者である事に思い至る人は、誰でもイエスに近づいていいのです。

 

  イエスは人が塵から造られた弱い者であることを知っておられます。良い事をする力の無い者であること、わきまえの無い者であることを知っておられるのです。

 

   自分がわきまえの無い者であることに気づいた人は、自分ではどうすることも出来ないと気づいた人は、そのままでイエスのもとに行けばよいのです。

 

  イエスは、その人に知恵を要求されません。知恵が無い人に知恵を授けるといわれたのです。知恵は、イエスが持っておられます。イエスのもとに来たら、神の知恵を与えるといわれるのです。

 

  イエスが与える知恵は、神の霊、御霊です。御霊はすべてを教え、思い起こさせ、その人の内側を聖めて下さるのです。そして、その知恵は神の愛が伴っています。

 

  気づく生き方に変えていただきましょう。知恵を得るために、大胆にイエスに近づきましょう。