「闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ち叩いて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(コリントⅠ 9:25-27)
闘技者たちは、優勝を目指して、日々のトレーニングや減量、自己コントロールをして、自分の身体を打ち叩いて励みます。しかし、その褒美は、朽ちる冠であり、この世のものです。
パウロは、朽ちない冠を受けるために、義の訓練にいそしみます。キリストが与える永遠のいのちと、神の御国の住まいを勝ち取るために、肉を殺して、自制します。永遠に価値あることのために、自己コントロールするのです。それは、ほかの人にキリストの福音を宣べ伝えておきながら、自分自身が神の御国に入れない者にならないためです。
異邦人のために神が立てられた使徒パウロは、以前は、殺害の意に燃え、キリスト信者を迫害する者でした。厳格で熱心なユダヤ教徒だったのです。
ところが、主イエスの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えるサウロ(パウロの名前)に、天からの光が巡り照らしたのです。彼が地に倒れると、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。
サウロ(後のパウロ)は、すぐに主の声だとわかりました。「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねました。「主」と言う存在は、モーセの時代からずっとユダヤ民族のうちにあるものです。神に熱心なユダヤ教徒のサウロは、主を畏れる者です。しかし、何故、主はサウロの名前を呼ぶのでしょう。しかも、サウロが主を迫害していると言うではありませんか。
主は、答えられました。「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
サウロは、イエスが主であることを否定する者でした。自分を神の御子と呼び、聖なる神を冒瀆するイエスが十字架で死んだことは、当然の報いだと思っていました。弟子たちがイエスは復活したなどと言うのは嘘です。墓からイエスの遺体を盗んで、墓を空っぽにして、イエスが甦られたと吹聴する弟子たちの作り話です。サウロは、大祭司の語る情報を鵜呑みにしていました。
しかし今、主がサウロに語られました。主は、十字架で処刑にしたはずのナザレのイエスの名を名乗られました。死んで甦られた方が語っておられるのです。弟子たちの話は本当だったのか。本当ならば、十字架につけたナザレのイエスが、キリストだったのか。自分は、主と主の弟子たちを迫害していたのか。
主は、サウロに計画を持っておられました。主は言われました。「サウロは、キリスト・イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしはサウロに示すつもりです。」
イエスの弟子たちは、サウロを恐れていました。しかし、キリスト者に対して殺害の意に燃えるサウロのことを、主が、キリストの名を運ぶ選びの器だと仰せられたのです。
パウロは言います。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」
キリストを信じたユダヤ人は、ユダヤ教の会堂から締め出されます。キリストの弟子たちは、ユダヤの会堂から追い出されて、自分たちの群れをつくっていました。異端とされたその群れは、実は、神の教会だったのです。
主イエス・キリストを知ったパウロは、「私は罪人のかしらです。」と言っています。パウロはまた、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』と言う言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」とも言っています。
ダビデ王が、主のために神殿を建てたいと願いましたが、主は、ダビデの子ソロモンが神殿を建てることを決めておられました。そして、ソロモンを王座に着かせられたのです。
ソロモンの願い事は、主の御心にかないました。ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩む者でした。神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられました。それでソロモンの知恵は、すべての人々の知恵にまさっていました。
主がソロモンに仰せられた通りです。「見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのようなものはなかった。また、あなたのあとに、あなたのようなものも起こらない。」
イスラエルの神は、偶像を拝む外国の人々と混ざり合うことを禁じておられました。しかし、外国の女たちを愛したソロモン王は、神の命令を守らず、外国の女たちを妻として、女の持ち込んだ偶像に従い、父ダビデの道を歩みませんでした。
主は怒り、ソロモン王によって確立したイスラエル王国をソロモン王の死後、南ユダ王国と北イスラエル王国に引き裂かれました。ソロモンの子孫に、一つの部族(ベニヤミン族)だけを与えて、南ユダ王国の王としました。そして、主は、十部族をソロモン王の家来のヤロブアムに与えられました。
イエスは言われました。
「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」
イエスは、人類の中で、バプテスマのヨハネが最上の人だと証言されたのです。ヨハネは、母エリサベツの胎にあるときから主イエスを身籠った母マリアの声を聞いて喜びおどったのです。彼は、主イエスを証言するために生を受けたのです。
ヨハネは、イエスにバプテスマを授けると、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に来られたのを目撃しました。ヨハネはイエスを、聖霊によってバプテスマを授ける神の子であると、証言しました。ヨハネは、イエスを見て、言ったのです。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」
しかし、バプテスマのヨハネは、キリストのみわざを聞きながら、弟子たちを託してイエスに尋ねています。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
イエスが神の子であり、神の子羊であると証言したヨハネ自身、イエスがキリストであることの確信を失ったのです。女から生まれた者の中で最もすぐれたヨハネは、天の御国の一番小さな者よりも劣る者となりました。
神に祝福されたソロモン王も、バプテスマのヨハネも、その祝福の道を全うできませんでした。主に結びついた信仰を持ち続けることができませんでした。彼らは、信仰によって、主に結びつくことができませんでした。
パウロは言います。「わたしは決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」
決勝点にたどり着く信仰者は、主に申し上げます。
「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩編16:2)