ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

どうしても必要なことは一つだけです

 

 イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。主をお迎えすることができるとは、なんと光栄な事でしょう。マルタの心はおどりました。マルタは、主をもてなしたかったのです。

 

 アブラハムもそうでした。三人の人を見るなり、彼らを迎えるために天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏して礼をしました。そして、料理を用意し、彼らに給仕したということが創世記18:2-8に、書かれています。

 

 三人のうちのひとりが言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

 

 ザアカイもそうでした。取税人のかしらで金持ちのザアカイは、ユダヤ人の嫌われ者でした。しかし、主イエスはザアカイを見て、言われたのです。「ザアカイ。あなたの家に泊まることにしてある。」と。ザアカイは天にも昇る気持ちでした。主が、自分の家に来られるのです。

 

 ユダヤ人たちは、「あの方(主イエス)は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやきました。誰もが認める強欲で大悪人の罪人ザアカイは、主に言いました。「主よ。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、誰からでも、私がだまし取った者は、四倍にして返します。」

 

 イエスは、ザアカイに言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

 主を迎えると、神を求めている人は喜んでもてなします。主も、そのもてなしを受け取られます。主は、アブラハムにも、ザアカイにも、告げることがあって来られていました。アブラハムもザアカイも、聞く耳がありました。主とアブラハムの間に、また、主とザアカイの間に、対話がありました。もてなしに心を砕いて、主との対話をなおざりにすることはありませんでした。

 

 アブラハムの心も、ザアカイの心も、主に向いていたのです。しかし、主を喜んで家にお迎えしたマルタの心は、イエスをもてなすことで、頭がいっぱいでした。主ご自身との対話よりも、主をもてなすために気が落ち着かず、あれこれとせわしなく動き回っています。

 

 主は、マルタとマリアのために語るべきことばをお持ちでした。主が、地上に遣わされたのは、神の民アブラハムの子らに、神の国について、永遠のいのちについて、父について教えるために、神のことばを託されていたのです。

 

 主は語り、しもべは聞くのです。「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」これが、神が望まれる人の姿でした。

 

 マルタとマリアの弟ラザロが死んで墓に入れられて四日たったとき、イエスが来られました。マルタは言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

 

 イエスは言われました。「あなたの兄弟は甦ります。」マルタは、「私は、終わりの日の甦りの時に、彼が甦ることを知っております。」すると、イエスは言われました。「わたしは、甦りです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

 マルタは言いました。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

 

 マリアは、イエスにお目にかかると、イエスの足もとにひれ伏して言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」マリアの心はイエスを頼みとし、いつも、寄りすがっていました。マリアの主はイエスだけです。イエスは、常にマリアの主でした。

 

 イエスは言われました。「彼をどこに置きましたか。」イエスは、ラザロの墓に立てかけてある石を取りのけるように言われました。

 

 死んだラザロの姉マルタは言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」マルタは、「あなたの兄弟は甦ります。」と言われたイエスのことばを理解していませんでした。

 

 イエスは、マルタに言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 

 マルタは、イエスのことばを信仰によって受け取ってはいませんでした。ぼんやりとしていたのです。

 

 イエスは大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいたラザロが、遺体処理した長い布で巻かれたままの姿で、墓から出て来ました。

 

 マルタは、イエスご自身のことばも自分の理解で聞いていて、信仰に結びついていませんでした。これは、ほとんどの人の反応と同じだと思います。

 

 マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、イエスのみもとに来て言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」なんと、ご招待した方(イエス)に、イエスの足もとに座ってみことばに聞き入っていた妹マリアを訴えるではありませんか。

 

 客として招かれた家で、バタバタとせわしなく動き回るもてなしには、お客の方も心が落ち着きません。かえって、訪問したのは迷惑だったのかと申し訳なく思う客もいるでしょう。

 

 マルタの心は世に置かれ、世から神を見ていました。しかし、妹のマリアの心はイエスとともにあり、天上の喜びを味わっていたのです。

 

 世のものはすたれます。しかし、主イエスのものは天のものであり、永遠です。地上にあって、天の恵みを受けるのです。世のものは、いのちを与えません。たとい、それが愛から出たものであっても、御霊の証がなければ、世に属するものです。

 

 マリアは、永遠のものを求めていました。そして、イエスが永遠のお方であることをマリアの霊は捉えていたのです。マリアの心は地上のものではなく、イエスの語る天上のものとともにありました。

 

 どうしても必要なことは一つだけです。イエスが地上に遣わされたのは、御国を知らせ、永遠のいのちを与えるためなのです。

 

 世でどれほどすぐれていても、イエスと結びついていない事はすべて滅びます。神の御国に上げられることはありません。しかし、イエスに結びつく事は、どんな小さなことでも、神の御国の称賛となるのです。

 

 本当に大切なものは、永遠に残る信仰です。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、神である主を愛することです。主を愛するとは、主が望まれることを行なうことです。信仰がなければ空しいものです。マリアは、その良いほうを選んだのです。