ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

異邦人が求めたいのちの木

 

  ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召されたパウロは、ホセアの書によって語っています。

 「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない。』とわたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9:24,25)

 

 東方から来た賢者たちは、到達できない涅槃に入るのを助けてくださる方、「ユダヤ人の王」として来られる明けの明星を待ち望んでいました。

 

 彼らは、先人たちが切り開いた悟りの道を探求する者でした。悟りの世界、涅槃の近くまで来ているのに、中を見ることも入ることもできないでいました。

 

 しかし、瞑想の中で得た知恵によると、ユダヤ人の中から生まれる、「王」なる方が現れると、その方が導いて下さることを悟っていました。

 

 いのちの木は、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣で閉ざされています。だれも、いのちの木に辿り着くことができません。近づこうとすると、必ず、輪を描いて回る炎の剣に裂かれ、直ちに死んでしまいます。だれも、その炎の剣を突破できる者はいません。死んでしまったら、悟りの道はそこで終了になります。命のあるうちに、そこに辿り着かねばなりません。涅槃は死んだ者の場所では無く、生き続ける者の場所だからです。

 

 涅槃は、生老病死の悩みが解放された場所です。死のない安息の場所です。明けの明星が現れると、すべてのことが明らかにされて、安息の場所が開かれるのです。

 

 異邦人は、ユダヤ人のように律法を守り、義を求めていたわけではありません。本願を求めていたのです。生かしてくださる力です。その力を持つ方が、「ユダヤ人の王」だと悟っていたのです。

 

 パウロは、言いました。

 「義を追い求めていなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

 それは、こう書かれているとおりです。

 『見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ9:30-33)

 

 生かしてくださる力ある方がお生まれになったことを、東方の賢者たちは、明けの明星で知りました。

 

 そのお方は、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。明けの明星を頼りに、賢者たちは、長旅をして東方から、そのお方を拝みにやって来ました。

 

 宝の箱を持って、やって来ました。長い間待ち望んだ、死の悩みから解放し生かしてくださるお方が、世に来られたのです。精神的には涅槃の近くまでたどり着いたものの、肉体がそこに入るのを妨げます。肉体をどうやって悟らせることができようか。賢者達は、この難題を抱えていました。

 

 しかし、「ユダヤ人の王」が世に来られたならば、その難題すらをも解決してくださるはずです。この難題を解決するために、このお方は来てくださるのです。

 

 「ユダヤ人の王」がお生まれになった。そのことで十分でした。闇に光が現われたのです。もう、闇ではありません。賢者たちの時代に、その知恵を伺えるかどうかはわかりません。しかし、お生まれになったのならば、すでに解決したようなものです。

 

 その方こそ、ユダヤ民族が待ち望んでいた主キリストでした。彼らの救い主です。その当時は、ユダヤはローマ帝国の属州で国がありませんでした。ユダヤ人たちは、精神的なことよりも、政治的なことを求めていました。彼らは、地上での救いを求めていました。彼らの思いに、生老病死の悩みからの解放を慕う心はありません。

 

 老いることも、病むことも、死ぬことも、人間ならば、誰もが通る道。神の摂理だと思っていたでしょう。彼らは、生きることの苦しみからの解放を求めていました。生活の改善を願っていたのです。彼らの思いは、肉体の命とともにありました。肉体の命の安らぎと平和を求めたのです。

 

 一方、東方から来た賢者たちは、肉体の死をも克服する、目には見えないが確かに存在する涅槃を求めていました。肉体の命ではなく、肉体が死んだあとの精神の安息する涅槃を求めていたのです。彼らは、肉体は現象であって、真実なものではないことを悟っていたのです。肉体や目に見える世界は空(くう)なるものなのです。あるように見えて、実は実在しない幻のようなものです。賢者たちは、やがて消えゆく幻のような肉体の中にこそ、真実なものがあると信じて来ました。

 

 心とも違う、もっと確かで不動のもの。生かす力のようなもの。彼らは、それを「本願」と呼びました。キリスト教で言うところの、「神」であり、「神の御心」です。これは、肉体によって妨げられるものではありません。肉体を持っていようと、肉体を失おうと、変わらず存在し続けるものです。

 

 「ユダヤ人の王」なるお方が、肉体のあるなしに関係なく、この本願を明らかにしてくださるはずです。このお方によれば、肉体を持ちながら、涅槃に到達できるのです。

 

 天地万物を造られた神は、ベツレヘムに御自分のひとり子イエスを遣わされました。イエスはご自分の民ユダヤ人に、真理を語り聞かせました。万物を造られた父について、御国について、永遠のいのちについて教えられました。これは、賢者たちが知りたかった、本願の御姿であり、涅槃であり、悟りの完成だったのです。

 

 義を求めたユダヤ人は、生ける神を知りませんでした。神の御心にも、神の御国にも心を向けることがありません。

 

 異邦人は、生かす力を悟り、涅槃を求め続けたのです。すなわち、生ける神御自身と、神の御国を求めていたのです。

 

 イエス・キリストは、シオンに置かれたつまずきの石、妨げの岩となりました。ユダヤ人たちは、ナザレのイエスにつまずき、神の御国に入ることを妨げられました。

 しかし、「ユダヤ人の王」に信頼した東方の賢者たちは、失望させられることがありません。

 

 地上のことだけに目を向けている者に、平安は訪れません。天から来られた方イエス・キリストに信頼する者は、望んでいる祝福を遥かに超える、永遠の栄光を受けるのです。

 

 いのちの木は、ケルビムが守っています。イエス・キリストの御名を持たない者は、決していのちの木に辿り着くことができません。

 しかし、イエスを主キリストと信じた者は、神の民でなかった異邦人でも、いのちの木に辿り着いて、いのちの木の実を食べることができるのです。