ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの血の力

 

 聖歌425

 「罪 重荷を除くは 血の力 主の血は 

  悪魔のわざをこぼつ 奇しき力なり

  力ある 主イエスの血

  受けよ 受けよ

  力ある 主イエスの血

  受けよ 今受けよ」

 

 「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ17:14)

 神は仰せられます。「肉のいのちは血の中にある。」(レビ17:11)

 

 血はいのちなのです。血がからだを巡るとき、いのちが働いているのです。大量出血して血液を失えば、心臓が動いていても、体全体にいのちが巡ることができません。身体をめぐる血液を失うことで、心臓は役目を失います。心臓がいのちだと思っていましたが、血がいのちだと言われます。

 

 心臓は、いのちである血を体中に行き巡らすポンプの働きで、血管はいのちを運ぶパイプなのですね。

 神の働きに当てはめてみると、心臓は父なる神で、血管は聖霊、そして、いのちの血は神の子羊イエスの血のようです。

 

 肉のいのちは血の中にあるのです。肉体を持つ者のいのちは、血の中にあるのです。血のない者は、いのちのない者、死んだ者です。

 

 イエスの血は、神が遣わされた贖いの子羊の血です。肉体を持つ、肉なるからだのイエスだから、血を流すことができました。

 神の御子の御姿では、血がありません。肉なる姿ではないので、血がないのです。肉体を持たない神のひとり子の御姿では、肉なる者の罪を贖う血を与えることができません。

 

 父なる神は、御子に肉体を造り、血によって生きる肉なる者とされました。肉なる姿の御子イエスは、血のいのちによって生きる者となられたのです。

 

 イスラエルに遣わされた御子イエスは、肉なる姿でユダヤ人の間を歩まれました。人を造られた創造主である神の御子が、神の民として聖別されたご自分の民のところに来られたのです。

 

 神の御子イエスは、神の民と同じ姿になられました。そして、ユダヤ人として歩まれました。ユダヤ人の会堂で聖書を朗読し、イスラエルの神の教えを守られました。そして、イエスの周りには、神に純真な偽りのないユダヤ人の弟子たちがいました。

 

 ユダヤ人たちは、神の戒めを完全に守ることができずに、律法の奴隷となっていました。しかし、神の子羊イエスは、父なる神とともに歩まれ、文字の律法ではなく、生ける神のことばに完全に聞き従い通されました。イエスは、父なる神のみ旨の中を歩まれました。

 

 イエスは、神の律法を完全に守られました。イエスは、律法の奴隷ではありません。生ける神のことばを受け、生ける神に霊とまことをもって仕えられたのです。イエスは聖霊とともにおられました。神に完全に聞き従い通したイエスは、神の戒めを完全に守った唯一の鼻から息をする人です。

 

 イエスは、神の霊によって、処女マリアの胎に宿りました。

 預言者イザヤは、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)と預言していました。

 

 神は、神の民イスラエルを救うために、主の御力で遣わす肉なる人の子(イエス・キリスト)の存在を告げられたのです。

 神は、マリアに、胎に宿る男の子を「イエス」と名づけるように告げられました。「神は私たちとともにおられる」という名前です。

 

 人の子イエスは、神がイスラエルとともにおられることを証する神の子羊でした。肉体を持つ神の御子イエスは、父なる神のわざを現わし、父なる神のことばを語られました。

 

 「パリサイ人たちは、イエスが安息日に癒したのを聞いて、『その人は神から出たのではない。安息日を守らなかったからだ。』と言った。しかし、ほかの者は言った。『罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。』」(ヨハネ9:16)

 

 イエスは言われます。「人の子(イエス・キリスト)は、安息日の主です。」(マタイ12:8)人の子イエスは、安息日を造られた神の御子です。安息日のために、人の子が造られたのではありません。

 御子イエスは、安息日を守らなければならないとイエスを責める、律法の下にいて律法の奴隷のパリサイ人たちに、ご自分が安息日の主であることを明かされました。

 

 神の安息は、神の御子イエスとともにあるのです。イエスは、父なる神に従って、癒しをされたのです。イエスは、律法に思いがふさがれて神の御心をとらえることのできないパリサイ人たちを責められました。生ける神に仕える神の民でありながら、生ける神のみ旨を知ることのない人たちです。

 

 律法は、イスラエルの神を証するものであって、生ける神御自身ではありません。イスラエルは律法を通して、イスラエルの神を見ていました。

 しかし、「神が私たちとともにおられる」と神に名づけられたイエスは、生ける神とともにおられる、神の御子です。そして、イスラエルとともに生ける神がおられることを証する、神に遣わされた主キリスト(救い主)です。

 

 イエスのからだに流れる血は、罪のない血です。イエスは、完全に神の律法を守る者だからです。善悪の知識を知る木の実を食べる前の、生ける神と交わりを持つアダムと等しい非常に良い人(被造物)なのです。イエスは、肉のからだがありながら、罪を犯さない義人でした。父なる神の御心を満足させる完全な人でした。

 

 イエスの心は父なる神と一つでした。神のことばの中を歩まれました。神のことばから外れたことは一度もありません。神のことばから外れた的外れなアダムとは違います。イエスは、父なる神がイスラエル(神の民)のために用意された第二のアダムなのです。

 

 血はいのちです。罪の報酬は死です。そして、肉のいのちは血の中にあります。罪のない血は、死なないいのちです。罪のないイエスの血は、永遠のいのちです。

 

 神の子羊イエスは、神の民イスラエルのために、十字架で贖いの血を流されました。永遠のいのちの血を流されたのです。永遠のいのちに、死は力を持ちません。

 

 イエスの血は、死をもたらす罪を除く血です。なぜならば、イエスの血は、悪魔のわざを砕く力ある血なのです。

 

 罪のための生贄となられた神の子羊イエスの血は、悪魔の力、罪の力を砕き、死と滅びに勝利した永遠のいのちなのです。

 神が私たちとともにおられる(インマヌエルである)イエスの血を受ける者は、永遠のいのちを受けます。

 イエスの血を受けるとは、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れることです。イエスの血を受ける者は、永遠のいのちを受けます。イエスの血に永遠のいのちがあるからです。

 

 イエスの血を受ける者は、神が私たちともにおられるイエスのいのちの中に入れられます。

 イエスの血を受ける者は、神が私たちとともにおられると告白するいのちを受けます。神が私たちとともにおられると告白するいのちを受ける者のうちにあるのは、信仰です。私たちは、信仰によって、イエスの血を受けます。

 イエスの血を受け、イエスのいのちの中に入ることを証するものは、キリストの御霊であり、聖霊です。

 

 肉なるからだのいのちであるイエスの血は、霊なるからだのいのちであるキリストの御霊を与えてくださるのです。

 

 イエスの血を受ける者は、聖霊(キリストの御霊)が保証となられて、父なる神が与える永遠のいのちを得るのです。