悪魔は神の敵対者です。神の敵は悪魔です。天地万物を造られたのは、永遠の昔から存在しておられる全能の神です。神に敵対する悪魔は、神の創造物でもあるのです。神に仕える天使長ルシファーの成れの果てです。悪魔も、神の支配の中で存在するものです。
神に支配されている悪魔が、神の被造物を奪い取ったことが、この世の矛盾、生きる苦しみと老いる不安と病む痛みと死の悲しみの原因です。被造物を支配し管理することを神から任されていた「人」が、悪魔の罠に捕えられました。管理者が悪魔の手に落ちたことで、被造物全体が悪魔の支配下に入れられました。
悪魔の支配下に入った被造物は、いのちから死に移されたのです。死は、人の罪(神のことばを追い出し、悪魔の言葉をうちに入れ、神の支配から悪魔の支配を選び取った)によって、被造物全体に及んだのです。
悪魔の言葉を受けた人は、悪魔の支配下に入りました。悪魔は、反逆者、敵対者であり、卑怯でずる賢い者です。善悪を知る知識の木の実を食べた人は、悪魔とともに死にました。そして、悪魔の性質を受け継ぐ者となったのです。
悪魔に捕えられて、死が定められ死とともに生きる人に、死(罪の呪い)を滅ぼして、いのちを与えるために、神のひとり子が、神に遣わされて、世に現われました。死人ばかりの世に来られた、ただひとりいのちを持つお方です。永遠のいのちの神と繋がっている人です。悪魔の敵です。
死の国の王、この世の君である悪魔は、この侵入者を滅ぼそうと躍起になりました。いのちの君を入れたならば、死の国は崩壊してしまうのです。なんとしても、彼が地上に留まるのを阻止しなければなりまりせん。
彼が処女マリアの胎に宿ったとき、許嫁の夫ヨセフがマリアと離縁することを計画しました。ユダ族のダビデの子ヨセフがマリアを受け入れなければ、キリストがダビデの子と呼ばれるという預言は実現しません。
しかし、神の使いがヨセフに現われ、神にへりくだった正しい人ヨセフは、それ(子を宿した許嫁のマリアを迎え入れよとの神のことば)に聞き従いました。それで、神の御子イエスは、ダビデの系図のヨセフの子となり、ダビデの子と呼ばれる「人の子」となられたのです。
イエスが処女マリアから生まれると、悪魔は、救いのわざをさせまいとして、幼子である神の御子イエスを殺そうとしました。キリストとして生まれた神の御子がどの子かを特定できない悪魔のしもべ(ヘロデ王)は、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。
イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受け、聖霊を受けた後に、悪魔はイエスを試みました。神の子羊イエスではなく、神の御子イエスとして地上を歩ませようとしたのです。しかし、イエスは、神の御計画どおり、人の子としての歩みを固持されました。
イエスが神の栄光のわざ、病人の癒しや、悪霊追い出しや、死人を生き返らせたり、真理のことばを語ることを妬み、また、自分を聖なる者とするイエスを憎み、怒りに燃える祭司たちは、イエスを殺そうとイエスの命を狙いました。しかし、神の時ではなかったので、神がイエスを守られました。
いよいよ、ローマの許しを受けて、公に、イエスを処刑する機会を得た祭司長やユダヤの権力者たちは、イエスを十字架につけて死に至らせたのでした。
悪魔は、神の民であるユダヤ人たちの心を掴んで、神が遣わされた神の御子主キリストを、ユダヤ人の手で殺すことに成功しました。悪魔は、この時、勝利を味わったのです。
しかし、この勝利は、神の御子キリストの勝利だったのです。神は、神の子羊イエスの贖いの血を聖いと宣言されました。聖なるキリストの血は、死をも打ち破る、力強いいのちなのです。罪の呪いを打ち砕く聖なる血です。死は、父なる神に忠実な神の御子イエスを引き留めることができませんでした。
神が御計画された、死から被造物を取り戻す救いのわざが完了しました。悪魔が御子イエスにもたらした十字架の死は、神の勝利でした。十字架につけられた子羊イエスの死によって、罪と死の力は効力を失いました。十字架で流された子羊イエス・キリストの血は、すべての罪の汚れを取り除き、聖なるものとしてくださるのです。そして、罪のないものは死ぬことがありません。
神のひとり子イエスは、悪魔と戦って、勝利を取られたのです。主キリストは、この世の君を踏み砕かれたのです。いのちによって、死に勝利を取られました。子羊イエスの血によって、罪人を死から取り戻したのです。
墓に納められたイエスは、死に勝利して復活のからだで甦られました。新しい創造です。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」(詩編2:7)のみことばが成就しました。
主イエス・キリストは、永遠の昔から神の御子でした。神のひとり子でした。神とともに天地万物を造られた創造主でもあられるのです。
創造主であられる神のひとり子が、御父に肉のからだを造っていただき、「人の子」として、女(処女マリア)から生まれました。天で生きる御子が地上に下り、神の御姿を捨て、肉体を持つ人の子となられたのです。永遠に生きる神の御子から、朽ちる肉体で生きる人の子となられたのです。
人の子となられた神のひとり子は、天に帰ることができるのでしょうか。善悪を知る知識の木の実を食べる前の一度も罪を犯さない人のように、完全な人として生きられた人の子イエス。しかし、アダムの罪によって死を宣言された肉体は朽ちるものです。
イエスは、十字架でその朽ちる肉体を滅ぼされました。キリストの血は、永遠に生きるいのちです。肉体から解放されると、永遠に生かすいのち(生かす御霊)となられました。
生かすいのちである主キリストの血は、多くの者を生かします。イエスを信じる者の不義を消し去り、神に受け入れられる義なる者としてくださるのです。
人の子イエスは、十字架で肉に死に、キリストの贖いの血(生かすいのち)によって、死に勝利して死から甦り、墓から復活されました。死からいのちを生んだのです。「あなたはわたしの子、きょう、わたしが生んだ。」と仰せられる神の御霊によって、闇と死と滅びから、神の子羊イエス・キリストは生まれました。
神は、子羊イエスを、「わたしの子」と呼ばれました。神の御姿ではない、人の子の姿のイエスを、「わたしの子」と呼ばれたのです。そして、復活のからだで生きる新しい創造として、死から生み出されたのです。復活のからだは、聖霊により、神の御子イエスにおいて、初めて創造されました。
死は、復活のからだを、閉じ込めることができません。殺しても、殺しても、甦ってしまうのです。風船を水中深く沈めても、勢いよく水から飛び出してしまうように、復活のからだは、死から飛び出してしまうのです。
永遠のいのちは、聖なるいのちです。聖でなければ、神の御前で生きることはできません。一点でもしみがあれば、存在できないのです。それなのに、しみや傷やしわだらけだった罪人が、新しい創造を授けられて神の御前に立つ者とされるという、神の救いの道が設けられたのです。エデンの園から追い出された罪人を義人とする神のわざが創造されました。神の憐れみと愛と犠牲によって設けられました。神の愛には、悪魔も適いません。
第一のアダムと第二のアダムがあるように、第一の創造と第二の創造が用意されました。第一の創造は、神のことばによって造られた現象の世界です。第二の創造は、神のことば(神のひとり子)が人の子となられて、水と血と御霊によって造られた永遠の世界であり、新しい創造(第二の創造)は、神の子どもと新しい天と新しい地です。
肉に死に、神の子羊イエスの贖いの血で罪赦され、御霊によって新しく生まれる、聖なる神の子どもです。そして、彼らが生きる永遠の世界です。
永遠に生きられる神のひとり子が、人の子となられて、肉に死に、子羊の血で義とされ、御霊によって永遠に生きる神の子どもとなられたのです。もともと神のひとり子であった御子が、「あなたはわたしの子。わたしが、きょう、生んだ。」と御父が仰せられる、新しい創造となられ、多くの捕虜を引き連れる神の子羊、主キリストとなられたのでした。
創造主であられる神のひとり子(ナザレのイエス)が、世を救う救世主となられ、新しく御霊によって創造される神の子どもたちを、キリストの死と血といのち(御霊)によって生んでくださるです。