ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の子どもは愛を知った

 

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物(生贄)としての御子(神のひとり子)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)

 

 私たちは、神を知りませんでした。私たちは、人間が神によって造られたものであることを学んでいません。創造主を否定する者でした。

 アメーバなど知情意を持たない生命体から進化して人間のかたちになったと教えられて来ました。猿から進化した姿であると信じ込まされて来ました。こうして、神の栄光を卑しいものに変え、神を侮り、生ける神を辱めて来ました。

 

 聖書は、初めに神がおられ、天地万物を造られたこと。人は、おひとりの神により、神の御意志によって創造された、神の被造物であると教えます。進化はありません。それぞれの種は、創造主によって、それぞれとして造られているのです。

 

 犬が猫を生むこともなく、猿が人間を生むこともなく、犬は犬、猫は猫、猿は猿、人は人として造られました。

 

 オリーブの木がいちじくの実をみのらすことはなく、いちじくの木がぶどうの実をみのらすこともありません。オリーブの木は、オリーブの実をみのらし、オリーブの種を生みます。いちじくの木は、いちじくの実をみのらし、いちじくの種を生みます。

 

 神は、それぞれに応じて、秩序と統制とをもって創造されているのです。

 神は、人には、知性と感情と意志とをお造りになりました。人を、神のひとり子と交わる者としてお造りになり、御子をお喜ばせなさいました。

 

 神は、「人をわれわれ(御父、御子、聖霊)に似せて造ろう。」と仰せられました。人は、神の栄光に満ちた交わりと愛と喜びと平安とをともにするために造られました。人は、神によって、御子とともに、御子のために造られたのです。人は、御子の喜びであり、楽しみでした。

 

 天地万物すべてのものは、人を生かすため、また、神に似たものとしてのわざをさせるためでした。被造物の中に輝く神のいのちの栄光を、人が喜び楽しみ、神をたたえ、神の御子を愛するために用意されました。

 

 神が天地万物を創造される以前から、神に背いて御子を憎み、神に反逆し御子に敵対する悪魔と悪霊どもが闇にいました。

 悪魔は、神が天地万物を創造されると、御子の思い入れのある神に似せて造られた人を、惑わす隙をうかがっていました。女(エバ)を騙すと、女はいとも容易く、心をなびかせ、神の領域を出て、悪魔の罠にかかりました。

 男は女にとらえられ、容易に友釣りされました。悪魔は、御子をののしり神を嘲笑いました。神に似せて造られた人は、まんまと悪魔の餌食となったのです。脅したわけでもなく、力づくで捕らえたのでもなく、悪魔の領域に自ら、人がのこのことやって来たのです。

 

 三位一体の神は痛まれました。そして、御子によって悪魔を裁くこと、また、御子を生贄にして悪魔の呪いを解き放ち、人を悪魔の領域から救い出すことを決められました。

 

 神は、人を愛されました。完全な愛で愛しておられます。

 神に背き罪を犯した人を、神の領域に戻すには、死をもたらす罪を取り除かなければなりません。しかし、罪を犯した女から生まれる人はみな、生まれながら罪の性質(原罪)を抱えています。肉なるものはみな、原罪を持っており、すべて死にます。彼らの父は、悪魔です。悪魔が死を帯びているので、子どもたちはみな、死にます。

 

 神はひとり子に肉体を造って、女から生まれる人の子とされました。しかし、肉(人間の欲)によって生まれたのではありません。処女から生まれた神の子羊です。世の罪を取り除く、罪の生贄としての子羊イエスです。世の罪の贖いのために、地上に来られた神のひとり子イエス・キリストです。

 

 神の御子イエス・キリストは、悪魔の偽りに洗脳されて人の成り立ちも知らず、死の原因である罪の呪いも悟らず、罪の呪いを負ったまま闇の中をさまよい望みなく死んで行く人々に、悪魔の偽りを覆す真理のことばを話されました。

 

 生けるまことの神がおられること、人はこの全能の神によって造られたものであること、罪が神と人とを隔て創造主と被造物が分離している姿は本来の姿ではないこと、天地は滅びるが、神のことばと、神のことば(御子)とひとつになったものは、滅びることがないことを知らされました。

 

 イエスは、真理を語るご自身が神(創造主)とともに人を創造した神のひとり子であること、神はイエスの父であること、イエスは世の罪を取り除くために父に遣わされた贖いの子羊であること、罪の贖いの子羊の肉を食べ血を飲む者(神の子羊〈キリスト〉の十字架の死と贖いの血を記念しキリストの御救いをたたえ感謝する者)は永遠のいのちを得ること、キリストは世を去るがもうひとりの助け主〈真理の御霊〉を父が遣わしてくださること、イエス・キリストを信じる者に御霊を授けていのちの道へ導くこと、キリストの御霊を飲む者は御霊によって新しい創造を受け神の子どもに造り変えられること、神の国があること、そして、神の子どもたちが入るとこしえの天の御国について教えられました。

 

 神の御子イエスは、世の罪を贖うために十字架で死なれました。神は、十字架につけられた神の子羊イエスに世の罪を着せ、罪の呪いを負わせられました。贖いの子羊の死によって罪の呪いの縄目を砕かれました。

 

 神は、子羊イエスの贖いの血によって世の罪を赦されました。イエス・キリストの救いを信じる罪人の罪を、神は赦されます。神の子羊イエスの血によってきよいのです。神の子羊イエスを神の御子キリスト(わが主、わが神、わが救い)と告白する人は、神に義とされます。

 

 神は、死と悪魔に勝利し甦られたイエス・キリストを天に引き上げて、神の子羊の血を携えて天の聖所に入られたキリストを、天のまことの聖所で仕えるとこしえの大祭司とされました。キリストは祭司の油を注がれた方です。

 

 キリストは、とこしえの大祭司を天にいただくキリストの民に、聖霊のバプテスマを授けられます。キリストは、真理の御霊によってイエスのことばを思い起こさせ、真理を教え、正しいいのちの道へ導かれます。キリストは預言者の油を注がれた方です。

 

 もうひとりの助け主(聖霊)は、キリストの民のうちに住まわれます。そして、キリストの十字架とともに肉に死に御霊にて生まれる御霊の子らを新しく造り変えられます。神のために、新しく神の子どもを創造されるのです。

 

 新しい創造を受けた神の民のところに、再び、キリストが天から来られます。イスラエルの王として、千年の間、世界を治められます。キリストは王の油を注がれた方です。

 千年の間に、七つの御霊の教会が完成します。千年の終わりに、縛られていた悪魔が解き放たれて人々を惑わすと、新しい人に造り変えられていない人々は惑わされます。すると、彼ら(いのちの書に名の書かれていない人々と名の消された人々)は、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲み、天から降って来た火に焼き尽くされます。

 

 神の裁きによって、天の御救いと地の滅びとは、はっきりと分かれます。

 神の御救いによって、いのちの書に名の記された人々は、天の御国に入ります。彼らの魂の故郷です。

 神と、神の御子キリストと、御霊との憐れみと恵みと愛をないがしろにした人々はみな、悪魔の領域から出ることができず、悪魔と運命をともにします。悪魔と悪霊どものために用意された永遠に燃え盛る火の池に投げ込まれます。

 

 神の愛は、私たちを神のみもとに招くことでした。

 キリストの血によって、私たちの罪は赦され、神の御名を呼ぶ者とされました。

 神と人との仲介者である天の大祭司キリストが、神と人との和解を成立されました。

 まことの羊飼いキリストは、真理の御霊を授け、私たちを新しく造り変えて、私たちの歩みを助けてくださいます。いのちの道へ導き、天の御国に入るように助けてくださいます。御霊は良い助け主です。

 神は、再び、キリストを地上に遣わしてくださいます。イスラエルの王イエス・キリストによって、地上に神の国が建てられるのです。聖書の約束を信じていた人々はみな、神のことばの成就を見、神のことばの真実を知ります。

 神は、神の子どもたちのために、天の御国に私たちの住まいを用意してくださいます。神は、放蕩息子を迎え入れ、靴と指輪をはめさせた父そのものです。

 靴(奴隷ではなく、子どもとして迎え入れるしるし)と指輪(父の財産が与えられるしるし)を、私たちひとりひとりが受けるのです。

 

 神を知らなかった私たちが、神から遠く離れていた私たちが、神の真実と、神のひとり子の愛と、御霊の喜びと謙遜によって、罪のない聖なる神の子どもとされ天に迎え入れられるのです。

 

 望みのない死人であった私たちが、神の御子イエス・キリストの御声を聞いて甦り、聖霊が授けられて永遠のいのちを得させられます。

 私たちは、罪が赦されただけではなく、キリストの血によって義とせられ、御霊による新しい創造を施されて、神の子どもに造り変えられるのです。

 御霊によって新しく生まれた者たちは、神のひとり子キリストを長子とする神の子どもとされ、キリストとともに天の御国を相続する兄弟とされるのです。

 

 神から離れ、放蕩していた私たちは、キリストの愛により我に返って、神を「アバ、父。」と呼び、とこしえの御国を受け継ぐ神の子どもとして、神の愛の中に帰ります。

 神の愛が私たちの住まい、私たちの霊の故郷、私たちの魂の家なのです。