ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の御子イエスが幸いと言われる人々

 

 イエスは口を開き、言われました。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

 憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 わたし(イエス・キリスト)のために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:3-12)

 

 イエスが言われる幸いの基準は、永遠に繋がるものです。天の御国にあります。

 天の御国に入ることのないものに、イエスの言われる幸いはないのです。この世で賞賛されても、天の御国に入らなければ、神の御子イエスは、それを幸いとは言われません。

 

 魂が肉体を持って、人間として生まれたことには理由があるのです。神の創造が完成されていないからです。創造の完成を求める魂がこの世に生まれています。

 完成された魂とは、罪のない魂であり、神の御霊によって新しく生まれ、永遠に生きる神の子どもに造り変えられた聖なる魂です。

 創造の完成のために、幾度も生まれ変わってきたのかもしれません。

 

 人(アダム)は、神のことばから外れた罪によって、死が定められました。罪の報酬は死であるからです。死の中に、神の創造された完成作品はありません。神の創造はいのちの中にあるからです。

 神に反逆し天から追放されて神に敵対する悪魔(堕天使長)が、(罪ゆえに)いのちの断ち切られた被造物を、自分のものであると主張します。

 

 神は、被造物を悪魔から取り返すために、罪の身代わりの生贄の子羊を造られました。神のひとり子に肉体を造り、女から生まれる人の子とされたのです。

 神は、霊なる神にへりくだり神に聞き従うアブラハムを選び、その子孫ユダヤ民族を神の祭司の国イスラエルの国民として育てられました。神のひとり子イエスは、ユダヤ人の処女から生まれました。

 

 祭司の国民は、神がイスラエルに遣わされた神の子羊(神のひとり子イエス)を十字架で屠り、世の罪を取り除く神の子羊の血を流しました。

 神の子羊イエスの血は、罪を贖う全き聖なる血であり、神は、子羊イエスの血をご覧になって、罪を赦され、義とされます。神に義とされた魂は、死から解放されます。

 

 神の義とは、神が遣わされた主キリスト(罪を贖い、死と滅びから救い出してくださる救い主)を信じる者を、ユダヤ人であっても異邦人であっても、また、取税人や遊女のような罪人であっても、御子イエスを信じる信仰によって、義とされるということです。このことに偽りはありません。

 

 神が用意された神の子羊イエス・キリストの罪の贖いの血を信じる者は、贖いの子羊イエスの血によって罪が贖われたので、罪が赦され罪のない者に数えられるからです。死は罪の報酬です。罪のない魂は、罪の報いを受けることがありません。死なないのです。

 

 神の子羊イエスは、罪のない者の初穂として、死から甦られました。死から、御霊の永遠のいのちをもって新しく生まれたのです。

 神の子羊イエスは、肉体に死んで、御霊によって新しい創造を受ける人の子(第二のアダム)の初子でした。

 イエス・キリストを信じ、神の子羊の贖いの血を受ける者は、新しい人死から生まれた復活のイエスと同じく、御霊によって新しく生まれ、新しい創造を受けるのです。

 

 新しい創造は、いのちの神のわざであり、神のみもとに帰ります。

 死を支配する悪魔は、いのち(永遠のいのち)のある被造物を自分のものだと主張することができません。死ぬことがないからです。キリストの血は罪を洗いきよめるので、悪魔は贖われた人の心に足場を設けなければなりません。

 

 それゆえ、悪魔は罪を犯させて、再び死の世界に閉じ込めようと働きます。

 アダムの場合、アダムの最愛の妻エバをそそのかしたら、芋づる式にアダムをも騙すことができました。アダムの子孫はみな、死と死後の裁きが定められています。

 

 人間が生まれる目的は、神の新しい創造を受けて、永遠に生きる神の子どもに造り変えられることです。アダムの肉体の命が実体ではなく、肉体を脱いだいのちが永遠であり、実体なのです。

 

 人間は、限りある命(人生)の間に、救世主として来られた神の御子キリストに出会い、罪を悔い改めて、罪が赦され義なる者に数えられて、キリストの生かす御霊によって新しく生まれ新しい創造を受け取って、神の創造が完成されるために、生まれてきたのです。

 

 心の貧しい者は幸いです。

 神に高ぶりのない人のことです。神にへりくだる者として、神はユダヤ民族に律法を与え、常に神を覚える者とされました。

 ユダヤ教徒は幸いなのです。神の御救いが約束された人々です。彼らは、天の御国に入るように導かれます。

 

 悲しむ者は幸いです。

 すがるものなく、悲しむ者に創造主なる神は御目を留められます。彼らは、偶像にすがらないのです。神は、彼らを覚え、キリストが治められる千年王国に彼らを迎え入れ、慰めを与えられます。

 

 柔和な者は幸いです。

 その人たちは、千年王国に招かれます。

 

 義に飢え渇いている者は幸いです。

 あらゆる宗教や哲学を尋ね求め、義に飢え渇き、あきらめないで真理を捜し求めている人は、やがて神の霊が臨まれ、真理に辿り着く道を見出すからです。

 

 憐れみ深い者は幸いです。

 その人は神の憐れみを受けるからです。千年王国の都の門が開けられます。

 

 心のきよい者は幸いです。

 神道のいう身魂磨きを心掛けて聖なることを求める人々に、神は御自身を現わされます。彼らは、神のことばを聞き、神を見、生ける神に守られるのです。

 

 平和をつくる者は、幸いです。

 神を恐れ神の御霊の支配の中にある人々は、神と和解し、神でない霊について行きません。彼らには、平安があります。神の霊(御霊)を受ける人々は、神の子どもと呼ばれます。

 

 義のために迫害されている者は幸いです。

 神の御子イエスを主キリストと告白する者が神の義(神の御子への信仰によって罪が赦され神の子どもとされたこと)のゆえに、この世の人々に迫害されるのは、当然のことです。この世の君悪魔にとって神の御子イエス・キリストが敵であるように、キリストのしもべは悪魔の憎むべき敵なのです。

 キリスト教徒は幸いなのです。彼らに、天の御国が約束されています。

 

 イエス・キリストのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

 あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。あなたがたの主、神の御子イエス・キリストも十字架につけられ殺されました。あなたがたは、預言者たちの道を行き、主キリストの道を行くのです。いのちの道を歩んでいるのです。天においてあなたがたの報いは大きいのです。

 

 「ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。

 『あなた(神の御子イエス)を産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』

 しかし、イエスは言われた。

 『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」(ルカ11:27,28)

 

 人間は神に祝福された人を幸いと言います。しかし、神の御子イエスは、そうではなくて、神のことばを聞いてそれを守る人たちが幸いなのだ、と言われました。

 

 「イエスのところに母(マリア)と兄弟(マリアの子ども)たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。

 それでイエスに、『あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。』という知らせがあった。

 ところが、イエスは人々にこう答えられた。

 『わたし(神の御子イエス)の母、わたし(キリスト)の兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。』」(ルカ8:19-21)

 

 イエスは、キリストの兄弟とは、御霊によって生まれ、新しい創造を受けて、天の御国に入る人々のことだと言われたのです。血肉の兄弟ではなく、神の御霊によって新しく生まれ、天の御国に入る御霊の子どもがキリストの兄弟なのです。

 イエスは、御父(父なる神)と同じく、創造の完成(永遠のいのちの神の子ども)をご覧になっているのです。

 

 幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。

 ユダヤ人でなくても、クリスチャンでなくても、神のことばを聞いてそれを守る人は、御霊がともにおられます。そして、時がくれば、父なる神と救い主である子羊イエスのことを明確に知らされるのでしょう。