ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の愛によって生まれる神の子ども

 

 「神は愛です。」(ヨハネⅠ 4:16)

 

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネⅠ 4:9,10)

 

 神は愛です。父なる神と子なる神と聖霊の交わりの中に、普遍の愛があります。三つの神格の神は、ひとつ心で、一心同体の神です。愛に満ち、全き聖にして、義なる神です。

 

 神に造られた被造物は、この愛が与えられています。母が子を慈しむのは、この神から受けた性質です。母がその身から出た我が子を慈しむように、御自分がお造りになった人を慈しまれます。

 

 神は永遠に生きる方。神のことばも永遠のものです。神のことばはいのちです。神のことばから外れたアダムは、永遠に生きる神から外れ、死ぬ者となりました。神のことばは、永遠のいのちです。被造物の管理者であるアダムが神のことばから外れると、被造物全体がいのちを失い、朽ちるものとなったのです。

 

 私たちはいのちを知りませんでした。神を知らなかったのです。私たちが神を知らなくても、私たちは神に知られていました。

 

 神から遠く離れた私たちは、神がいのちであることを知りませんでした。生きることに悩み、老いることを悲しみ、病いに苦しみ、死に怯えました。人生の苦しみからの解放を願いました。

 

 神は、遠くから、悪魔に騙され暗闇をさまよう人々をご覧になっておられました。そして、私たちのために、地上に、御自分の民を造られました。ユダヤ民族です。彼らに、御自身を現わされました。ユダヤ民族は、いのちの神、創造主を知る民です。神は、彼らに、神のことば(いのちのことば)を与えられました。ユダヤ民族は、「聖書」として、それらの神のことばを残しました。

 

 ユダヤ民族は、神のことばを預かる民でした。神のことばに従うように、神から召された民でした。神のことばのうちを歩むユダヤ民族イスラエルに、「神のことば」を人の姿として遣わされました。

 

 「神のことば」は、神のひとり子です。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、罪人アダムにいのちを得させられました。その方は、イエス・キリストです。神は、世に遣わした御子イエスを、罪の生贄の子羊として、神の祭司ユダヤ民族に屠らせました。

 

 罪の生贄の子羊として屠られたナザレのイエスの血は、アダムの罪を贖いました。神のことばから外れた死人アダムの罪は赦されたのです。罪が赦されたアダムは、再び、神のことばの中に入る者とされたのです。

 

 神のひとり子イエス・キリストは、神のことばから外れたアダムを、神のことばの中に取り戻してくださったのです。死からいのちへと移してくださいます。死んだ罪人を、ご自身の血(イエスの血)で聖め、聖なる神に仕える者としてくださいます。神のことばを踏みにじり、聖なる神を汚した罪をキリストの血で赦し、神の子どもとしてくださるのです。自分を神とする悪魔に従い、神を神としなかった不義を神の子羊イエスの死で取り除き、義としてくださるのです。

 

 神を裏切った者、神を知らない者、神を知ろうとしない者に、神の方から和解の手を差し伸べ、御自分のひとり子を、和解の生贄としてくださったのです。ここに、神の愛が私たちに示されました。

 

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。愛は神のものです。この愛は、神から出たものであり、神から出たものは永遠なのです。

 

 イエス・キリストは、神の愛の証です。人は、神の愛を受け入れるならば、その愛の中に入るのです。人は、イエス・キリストを受け入れるならば、神の交わりの中に入るのです。

 

 御父は御子を世の救い主として遣わされました。ですから、だれでも、イエス・キリストを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいるのです。イエスを信じる者は、神のことばを信じた者です。神のことばを信じ、神のことばのうちにいる者は、永遠のいのちを得るのです。

 

 「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。神は私たちに御霊を与えてくださいました。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。」(ヨハネⅠ 4:16,17)

 

 イエスを信じる者に、神は、御霊を与えてくださいます。御霊によって、御霊を持つ私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 

 私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられるならば、愛は、被造物である私たちにおいても完全なものとなるのです。

 

 神に似せて造られた人は、アダムによって死んだ者となりましたが、神の御子イエスの贖いの血によって死から甦り、御霊によって主キリストに似た神の子どもとして完成されるのです。