ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠に堅く立つ神の義

 

 「神の子キリスト・イエスは、『然り。』と同時に『否。』であるような方ではありません。この方には『然り。』だけがあるのです。

 神の約束はことごとく、この方において『然り。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」(コリントⅡ 1:19,20)

 

 神は、御自身を否むことができません。神は、御自分のことばを否むことがありません。神は絶対者であって、神から放たれた神のことばは覆されることはありません。

 

 エステル記に、権威について書かれています。

 「ハマンはアハシュエロス王に言った。『あなたの王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族がいます。彼らの法令は、どの民族のものとも違っていて、彼らは王の法令を守っていません。それで、彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。もしも王様、よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をするものたちに銀一万タラントを量って渡します。そうして、それを王の金庫に納めさせましょう。』

 そこで、王は自分の手から指輪をはずして、アガグ人ハメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンに、それを渡した。

 そして、王はハマンに言った。『その銀はあなたに授けよう。また、その民族もあなたの好きなようにしなさい。』

 そこで、第一の月の十三日に、王の書記官が召集され、ハマンが、王の太守や、各州を治めている総督や、各民族の首長たちに命じたことが全部、各州にはその文字で、各民族にはその言葉で記された。それは、アハシュエロスの名で書かれ、王の指輪で印が押された。

 書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。それには、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。」(エステル3:8ー13)

 

 ハマンは、自分に対してひざもかがめず、ひれ伏そうともしないモルデカイを憎んでいました。ハマンは、モルデカイがユダヤ人であることを知りました。イスラエルの神の律法に従い人にひれ伏そうとしないモルデカイとモルデカイの民族(ユダヤ人)を憎むハマンは、アハシュエロスの王国中のすべてのユダヤ人を、根絶やしにしようとしていたのです。

 王はハマンを重んじており、王国のための進言とみて、ハマンに一任しました。それで、ハマンの思い通りに事は運びました。

 

 モルデカイには、アハシュエロス王の妃となった親類の娘エステルがいました。父母が亡くなったエステルをモルデカイが養育したのです。エステルは、モルデカイの言いつけを守り、自分の民族をも、自分の生まれをも明かしていませんでした。それで、アハシュエロス王は、妻エステルがユダヤ人であることを知らなかったのです。

 

 モルデカイは、エステルに王の宦官のひとりのハタクを通して、王の発令を知らせました。ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くのものは荒布を着て灰の上に座っていました。

 

 モルデカイは、ハタクを通して、自分の民族(ユダヤ人)のために王に憐れみを求めるように、エステルに言いつけました。

 

 エステルは王に、自分がユダヤ人であることを打ち明け、自分にいのちを与え、また、エステルの民族にもいのちを与えてくれるように願いました。

 

 一度発布されたものは、たとい、王自身であっても取り消すことはできません。アハシュエロス王は、エステルに言いました。

 「あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」(エステル8:8)

 

 ハマンは、王によって処刑されました。

 

 モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、先に発布したところすべてに、その手紙を、早く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。その文書は、どこの町のユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財を奪うことも許したので、ユダヤ人に殺意を持っていた者たちは、ユダヤ人を恐れるようになった。とあります。

 

 王の名で書き、王の指輪で印して発令された文書は、たとい、王自身であっても、それを取り消すことができない、とあります。王の名で書き、王の指輪で印された文書は、否とはできないのです。その文書は、誰にも取り消すことができない権限を持っているのです。

 

 神のことばもまた、否とはならない権限があるのです。神には、然りしかありません。

 

 「善悪の知識の木の実を食べたら、必ず死ぬ。」とのことばには、取り消すことのできない権限がありました。善悪の木の実を食べたアダムは、もはや生きた者ではなくなったのです。いのちのことばである神のことばを聞くこともできず、神のお姿を見ることもできず、神の愛の交わりから追放され、罪をかかえて死ぬ者となったのです。

 

 アダムが追放されたのは、神が義なるお方だからです。神のことばに偽りはありません。然りがあるだけです。「しかたがない。今回だけは大目にみよう。」ということは、無いのです。神のことばが実現するだけです。

 

 アダムは、神のことばから外れ、いのちを失いました。アダムを生かすには、新しい神のことばが必要です。

 

 神は、エバを騙した蛇の頭(悪魔)を踏み砕き、死んだアダムを生かすために、神のことばのうちを歩む完全な人を造られました。神のひとり子を、「人の子」として、女の胎に造られたのです。神の御子イエスは、父なる神に従い通しました。神のことばから外れることはありませんでした。十字架の死に至るまで、従い通されました。

 

 神は、神のことばのうちを歩むもうひとりのアダム(第二のアダム)を造られました。彼は神のことばに聞き従い通しました。神のことばから外れない「人の子イエス」は、その行ないによって神に義とされた唯一の人でした。人の子イエスは、神の義を証する者であり、死に勝利したキリストです。

 

 神は、死んだアダムに、再び、神のことばを与えられました。「神のことばのうちにいるイエスを信じなさい。」でした。神の約束をことごとく、「然り。」とされたイエス。神から遣わされた主キリストです。行ないによっては義とされないアダムに、信仰による義を用意されたのです。

 

 それで死に向かうアダムは、主イエス・キリストによって、「神は真実です。」「神のことばは確かでした。」と神を信じ、「然り」なるお方に、「あなたが遣わされた御子キリスト・イエスを信じます。」「アーメン」(神のおっしゃるとおりです。)と言って、神に栄光を帰するのです。

 

 人は、神が遣わされたキリストを信じることで、神の真実をたたえ、神の義を証します。神の御子イエスを信じることによって、神が、その人の義とされるのです。神が義とされるならば、その人の義は永遠に堅く立つのです。

 

 神の御霊は、神に義とされた土の器(イエスを信じた人の肉体)に住まい、神のことばを与えていかれます。そして、いのちの道へと導かれるのです。御霊はこのようにして、神の義を証されます。

 

 神に義とされた人は、神の御霊を受けて、神の交わりの中に入れられ、永遠のいのちを受けるのです。こうして、神の義によって追放されたアダムが、イエス・キリストをお与えくださった神の義によって、神のもとに帰ることができるようになったのです。

 

 神の御子キリスト・イエスを信じる者は、永遠に堅く立つ神の義のうちに入り、聖なるものとされ、普遍の愛の中で、永遠に憩うのです。