ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ヤコブの時代

 

 天地万物を造られ、救い主を遣わされ、最後の裁きをされる神は、永遠に生きておられるおひとりの神です。

 おひとりと言っても、一つの個体という意味ではありません。神は霊です。霊なる神に肉体のようなからだはありません。物理的なものの存在しない、霊の国におられるのです。

 霊なる神は、父なる神、子なる神、聖霊がおられます。しかし、三人というわけではないようです。三つの神が一つ心、一つ思いで、一心同体と考えられます。父なる神は、子なる神と離れてあるお方ではなく、子なる神は父なる神と離れて存在しているのではありません。聖霊は、父なる神と子なる神とともにおられます。

 それで、聖書では、「神はおひとりである。」と言っています。おひとりであるとありますが、聖書には、父なる神と子なる神と聖霊が神であることをはっきりと記しています。

 

 ノアの大洪水のあとで、アブラハムを選び、アブラハムと契約を結ばれたのは、父なる神です。

 神は、アブラハムに、アブラハムの子孫にカナンの土地を与えることと、アブラハムの子孫が神の民となり祭司の王国となることと、彼らの中から世界の祝福の基となるひとりの子孫が生まれることとを約束されました。

 その当時、神が約束されたエジプトの川からユーフラテス川までのカナンの地には、ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人が住んでいました。

 これらの民が住んでいる土地を、神は、アブラハムの子孫に与えると言われたのでした。この約束が確かなことを証明するために、神は、アブラハムの子孫は四百年の間、自分の国ではない国で奴隷となることと、その奴隷の家からアブラハムの子孫を連れ出してカナンの地に導き上ることとを、アブラハムに告げられました。これらのことが起こったなら、カナンの地をアブラハムの子孫に与えると仰せられたのが、神である主であることを悟るためです。

 

 神はモーセを立てて、イスラエルをエジプトから連れ出されました。そして、荒野で、神の民としての契約を与え、イスラエルは神の律法を受けて、祭司の王国となる民として立てられたのでした。

 

 アブラハムの子孫(ユダヤ民族)が四百年間、エジプトの奴隷である間に、カナンの地に住む住民の暴虐は満ちました。そして、神は、暴虐に満ちた民をイスラエルの手に渡し、カナンの地をイスラエルに与えられたのでした。

 

 神は、イスラエルに祭司を立てて、神と人との仲介者とし、国民全体が、神に仕える祭司の王国として育てられて行きました。

 

 時が来て、神は、神がアブラハムに約束された世界の祝福の基となるひとりの子孫をイスラエルに遣わされました。それは、神の御子イエスです。神は、神のひとり子に肉体を造り、罪の生贄の神の子羊として、イスラエルに遣わされたのでした。

 

 アブラハムの契約からイエス・キリストが遣わされるまでの時代をアブラハムの時代とすると、イエス・キリストがイスラエルを歩まれた時代は、イサクの時代と言ってよいと思います。

 

 イサクは父アブラハムに燔祭の生贄として献げられました。イサクは抵抗せず、父アブラハムに従順に従い、生贄として祭壇の上に献げられたのでした。

 イサクには、エサウとヤコブの双子の息子が生まれました。神は、弟のヤコブを選び、アブラハム、イサクの契約を相続する子孫とされました。

 ヤコブの子孫は神と契約を結ぶ民イスラエルとなりました。四百年の奴隷生活を経て、荒野で神と契約を結び、アブラハムの契約を相続する民となったのです。エサウとエサウの子孫はヤコブに敵対し、神とイスラエルに逆らう者となりました。

 

 神の子羊イエスが来られると、イスラエルは二分されました。イエスの語る霊なる神を信じる者たちと、神の民イスラエルの肉の割礼と律法を固守する者たちとはっきりと分かれたのです。

 霊なる神の御子イエスは、アブラハムの肉なる子孫によって十字架につけられて殺されました。しかし、このことこそが、神が約束しておられた神の祭司の王国としての務めであり、また、世界の祝福の基となるキリストが世に現われたことを証したのでした。

 

 神の贖いの子羊イエスは、死んで墓に入り、三日目に墓から甦り、霊のからだで復活されて、弟子たちが見ている間に天に上られ、神の御座の右に着座された、神のひとり子であり、神が世に遣わされた救い主キリストなのです。

 主キリストが天に帰られると、神は、もうひとりの助け主(真理の御霊、キリストの御霊)をキリストの弟子たちに遣わされました。

 

 キリストが天に上られたあとで、約束の聖霊が授けられるのを待ち望む弟子たちに、聖霊のバプテスマを授けられました。永遠のいのちを与えるキリストは、聖霊のバプテスマを授けるお方です。イエス・キリストの御名により「聖霊」が与えられることで、イエスが神が遣わされたキリスト(救い主)であることが証されます。聖霊は、イエス・キリストが神の御子であることを明らかにします。また、聖霊のバプテスマはイエス・キリストを信じる者たちが神に受け入れられるものである「しるし」となるのです。

 キリストが天に帰られたあと、聖霊が下られました。イエスとともにおられた御霊が、イエス・キリストを信じる者とともにいてくださるのです。

 

 イサクの時代から、ヤコブの時代に入りました。ヤコブは、多くの苦難を体験し、悲しみの人でしたが、死の際で、十二人の息子たちを神の御旨に従って祝福しました。霊を見分け的確な判断をする者となっていたのです。

 

 ヤコブの時代は、聖霊の時代です。真理の御霊によって導かれる時代です。多くの困難や苦難を伴いますが、祝福の時代でもあります。

 イエスの時代に、イエスから権威を与えられた弟子たちは、悪霊追い出しや病の癒しなどの神のわざを行ないました。イエスに従って、それらのことをしたのです。弟子たちは驚き、喜びました。しかし、イエスのことばがなければ、彼らには自分ではよくわかりませんでした。イエスのことを「先生。」と呼んで従っていました。

 イエスご自身も、肉体の拘束の中にありました。弟子たちはイエスから離れたら、イエスのことばを聞くことも、神のことも理解できなかったのです。

 

 聖霊の時代には、目に見えるイエスはもうこの世にはおられません。天で、私たちのために執り成していてくださるのです。

 地上には、目には見えないけれども、風のように働かれる聖霊が与えられました。キリストの御霊です。

 イエスの弟子たちは、聖霊が授けられて変わりました。もはや、イエスは先生ではありません。明らかなる主キリストです。ラビのひとりではありません。死から復活された唯一のキリストです。弟子たちは、御霊の力を受けて、神の御子キリスト・イエスを証し、大胆に宣べ伝える者となりました。

 

 今は、ヤコブの時代、聖霊の時代だと思います。キリストの御霊によって、霊を見分け、神の敵である悪魔と戦い、勝利して行く時代です。魂の救いの喜びとともに、信仰の勝利のために、戦う時代でもあるのです。

 

 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:12,11)

 

 すべての神の武具は、真理の御霊によって受けるものです。真理の御霊、キリストの御霊がなくて、どうして、霊のことを知ることができましょうか。

 キリスト・イエスの契約があります。ヤコブの子らがすべて、神の契約に入ったように、イエス・キリストを信じる者たちは、神の契約の中に入っています。

 血肉のイスラエルではなく、イエス・キリストの御霊による新しいイスラエルを、聖なる御霊、聖霊なる神が創造されるのです。

 御霊が勝利を与え、いのちの道を歩ませてくださるのです。