ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠に生きる人

 

 女(母)から生まれた人はみな、死にます。寿命があるからです。

 女から生まれない人なんているんですか?

 

 永遠の昔から存在しておられた神のひとり子は言われました。

 「『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。』

 ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができましょうか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』

 イエスは答えられた。

 『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。』」(ヨハネ3:3-8)

 

 イエスが神のひとり子かどうかわからない、どうしてイエス・キリストが神の御子と言えるのか、と疑う人に申し上げます。それでは、イエスが神の御子ではない理由を教えてください。

 

 イエスが人の子となって来られた神の子である、というその最初のしるしが、神が契約を結ばれたアブラハムです。

 神は、アブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫に、御自分のひとり子を与えることを定められました。ひとり子を与えるとは、アブラハムの子孫に神の救いを得させるということではありません。世の罪を取り除き、永遠のいのちを得させる救世主が、アブラハムの子孫から生まれるということです。

 

 神は、女の子孫のすえに、悪魔を踏み砕く神のひとり子を遣わされるのです。

 イエス・キリストを生んだ処女マリアの夫となり、イエスの父親とされたヨセフの先祖を辿って行くと、ダビデ王に至り、アブラハムに至ります。

 

 アブラハムと妻サラの子イサクは、閉経した九十歳の女から生まれました。肉の欲求ではなく、神の霊の力で身ごもり、イサクは、生まれました。イサクは女から生まれましたが、神の御力によって死んだも同然の女のからだから生まれたのです。

 神はイサクの双子の息子の弟ヤコブを選び、長子の兄を退けられました。

 神が不妊の女サラの胎に息子(イサク)を造り、イサクのふたりの息子から弟のヤコブを選び、神の選びの器とされました。

 ヤコブは十二人の息子を生みました。神は、ヤコブの十二人の息子を十二支族の族長とし、十二支族の子孫を一つの民族とされて、この民族(ユダヤ民族)と契約を結ばれました。

 神は、アブラハムと結んだ契約を、ユダヤ民族と結んだ契約として更新されました。神は、ユダヤ民族と契約を結び、彼らを神に仕えるイスラエル民族とされました。

 

 神は、イスラエルを、神と契約を結ぶ祭司の国民とされました。こうして、天の神は、地上に御自分の祭司の民を設けられたのです。

 祭司の国民は、ほかの民族のように生きてはなりません。神から与えられた戒めを守らなければなりません。イスラエルは、神の律法の下に置かれて、神の召命を受けた民族でした。イスラエルは、神の契約のしるしが肉体に記されています。彼らの男子はみな、割礼を受けているのです。

 

 神は、アブラハムと結んだ契約に従って、イスラエルにカナンの地(現イスラエルを含む地)を与え、ひとりの王(ダビデ王)を立てられました。

 神は、イスラエルを国々の光とし、まことの神の栄光を諸国に現わす祭司の国民として国々を照らさせるために、神殿の丘に神の神殿を造らせました。

 

 神は、アブラハムの契約から始まった契約の民イスラエルに、悪魔を滅ぼす神のひとり子キリストを遣わすことを約束しておられました。天のまことの神の神殿のあるイスラエルの地に、神の御子はお生まれになりました。

 

 神は、ダビデ王の子孫であるヨセフの、許嫁の妻(処女マリア)の胎に御自分のひとり子のために肉体を造り、神の御子を肉体を持つ「人の子」としてお生みになられました。

 

 人の姿でイスラエルに生まれた神のひとり子キリスト・イエスは、神の霊によって、奇蹟やしるしを行ない、また、イスラエルの神(父なる神)について、神の用意しておられる神の国(イスラエルの再興とエデンの園の回復)について、永遠のいのちについて教え、そして、永遠のいのちを得るためのわざを明らかにされました。

 

 神の御子イエスは、神の子羊イエスを遣わされた父なる神と、神から出た神の子羊キリスト・イエスを信じる信仰が、永遠のいのちを得るわざであることを知らされました。

 

 神の子羊イエスは十字架にかかり罪の贖いの血を流し、三日目に墓から甦られました。肉の姿の人の子イエスは死んで甦り、霊の姿のキリストとなられ、弟子たちの見ている間に天に上られました。

 天から「人の子」として来られた神のひとり子は、御救いのわざ(肉の死、御霊による新生、復活のからだ)を成し遂げられて、神の御霊(聖霊)による新しい創造を受け、「復活の霊の子」となって、ご自分を遣わされた父なる神のみもとに帰られました。

 

 アブラハムからイエス・キリストの御救いの完成まで、神の霊が働き、イスラエルに与えられた神のことばは成就しました。

 神のひとり子イエスの誕生とキリスト(救世主)のわざは、イスラエルによって実現しました。モーセの律法や預言者や詩篇のことばは、ナザレのイエスがキリストであることを証していたのです。

 

 神の御子は、死に向かっている罪人たちを、罪を悔い改めて神に立ち返らせ、キリストを死から甦らせたと同一の御霊を授けて、永遠のいのちを得させるために来られました。

 また、死ぬべき罪人を、生かす御霊によって永遠に生きる者に造り変えて、天の御国に入らせるために、世に来られました。

 

 イエスは、肉なる人が霊なる人に創造されるわざを、ご自身において実証されました。肉に死んで、霊なる人に新しく生まれることを実践されたのです。

 

 肉によって生まれたときは、女から生まれました。女のいのちを繋いだのです。

 しかし、霊によって生まれるのは、女を介しません。人を介しません。霊の子は、人から生まれるものではありません。教会に集っていても、自分自身が御霊によって生まれなければ、霊の子になりません。

 御霊によって生まれることは、個人的な神体験なのです。聖霊のバプテスマを推奨する教会に集っていても、自分自身が聖霊のバプテスマを受けなければ、肉のままです。

 

 御霊によって生まれる者は、御霊がどこから来てどのようにわざを成さるかを知りません。目に見えないからです。

 しかし、御霊によって生まれた者自身は、自分の内側の変化に気づきます。心が晴れやかになり、理屈ではなく、人から教えられたからではなく、言葉に尽くすことのできない光栄ある喜びで、心のうちに喜びが湧き上がり、神への感謝に満ち、イエスを愛する愛のともしびが心にともるのを体験するのです。

 

 この喜びおどる新しい心は、肉のものではありません。肉は、目に見えないものを否定し、怪しみます。御霊を受けたからこそ、味わう御霊の霊的感覚です。御霊の霊的体験は、私たちの信仰を神に向けさせます。

 

 心の中の喜びと平安は、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。

 肉に死に、御霊にて生まれた御霊の初穂であるキリスト・イエスと同じ体験をしているのです。神のひとり子であられた御子が、女から生まれた人の子イエスとなられ、十字架で肉(罪)に死に、御霊によって死から生まれる新しい創造の御霊の子となられました。

 

 神の御霊によって生まれた御霊の子は、霊の子ですが、天使ではありません。神の御使いではなく、神の子どもとして新しく生まれたのです。

 神のひとり子は、罪人を救うために、神の御子の御姿を捨てて、人の子の姿をとり、人の子の姿に死んで、新しく御霊によって生まれた神の子どもとなられました。

 

 神のひとり子の栄光を捨てて、人と同じ神の子どもとなられ、神の子どもの長子となられたのです。そして、神は、神のひとり子に、神の子羊としての栄誉をお与えになられました。

 神の子羊イエスは、死の定まっていた多くの罪人を救い、キリストの御霊によって生かし、新しく神の子どもに創造して、父なる神にお献げになりました。

 神は、新しい創造の神の子どもたちをお受けになり、神のひとり子が相続する天の御国を、キリストとともに神の子どもたちにも相続させられます。神の御子イエスは、もはやひとり子ではなく、神の子どもたちの長子となられるのです。

 そして、神は、御使いたちがひとり子イエスに仕えたように、御霊によって新しく生まれた神の子どもたちに御使いたちを仕えさせられるのです。