ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

真理とは

 

 イエスは言われました。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

 イエスはご自身が真理だと言われました。真理とは、仏教では、真実で永遠不変の理法(道理にかなった法則、納得できる因果関係の正しい筋道)と捉えるそうです。真理は、すべてのものに適応する普遍のものです。哲学では、真理を、思惟(心に浮かべて深く考えること、心を集中させて考えをめぐらすこと、思考)と、認識する対象である存在とが一致することを指すようです。

 

 日本大百科全書によりますと、中世では、真理は、唯一の真理である神に基づくものとされ、神の真理は、事物を創造する真理である、とされています。この場合、存在の真(実体)に関係づけられて成立するものではなく、むしろ、存在の真がそれ(事物の創造)に関係づけられて成立するものとされました。神の存在が立証されなければ、真理は成立しないということになります。

 そうすると、知性が知性の外にある存在(神)そのものに、いったい、いかにして達し得るであろうかという問いが生まれます。

 

 この問いに対して、存在が立証されない神からの真理の認識は不可能であるという結論に至り、万民の一致が真理の基準として主張されて、人間を真理の尺度とする方向に向かったようです。そして、「真理とは各人にとってそう思われるもの」という、主張まで生まれました。

 

 現在では、人間が中心の世界が出来上がり、真理の尺度は、人間の理解によるところのものとなってしまいました。「神」と聞いただけで、一笑に付すほど、神から遠くに離れています。神は、遠い昔の知識の無い人々の古臭い迷信である。神を信じるなんて時代遅れだ、今は、人が月に行く時代だよ。科学の時代に、なぜ、そんな迷信じみた知恵のない原始的な生き方を望むのかと、進歩しない知識の無い人々を嘲笑います。

 

 世は、いよいよ、善悪を知る知識の木の実をみのらせるほどに生長を遂げました。悪魔の知恵と知識が彼らを賢い者のようにし、最高の知識と人々にほめそやされます。神の与える知恵は時代遅れで、神の存在そのものが古臭く、神を信じることは時代の進歩から落ちこぼれた者たちの逃れの道に分類されます。

 

 聖書には、「真理」という語句が多く出てきます。聖書は、永遠の昔から存在される神、今もあり、これから後にも終りなく、永遠にあると言われる神から受けたことばです。聖書の真理は、世の人々が古臭いと感じる神の尺度による真理であって、人間の尺度の真理ではありません。

 

 人間の尺度の真理は、たびたび、基準が変えられます。時代に応じて新たな価値観が生まれます。世の人々は、そのことに疑問を持ちません。新しいものを受け入れ、古いものを忘れます。そして、常に進歩しているのだと、人間の力を誇ります。

 

 これは、まさに、世界最初の権力者二ムロデが、「われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」と言って、バベルの塔を建て始めた時代のようです。二ムロデは神の存在を知っていました。なぜなら、ノアとセム、ハム、ヤペテに語られた神のことばを知っていたからです。

 「あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。」(創世記9:7)

 

 二ムロデは、神が全地に散らされることを阻止しようと、人々の力を結集したのです。二ムロデは、神に向かって立ち上がった滅びの子です。神の主権に立ち向かい、自分の力を神としました。

 現在は、二ムロデが建て始めた、天に届く塔(神の主権に逆らい、神に反逆し、神に敵対する人間の力の現われ)を完成するときです。それは、神のひとり子イエス・キリストに敵対する反キリストによって、完成します。反キリストは、クリスチャンとユダヤ人を迫害し背教させて、神の神殿に建つ反逆者です。

 

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテ二3:16)

 

 聖書は、人の御救いのため神の啓示によって与えられた書物です。

 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰の救いを受けさせることができるのです。」(テモテ二3:15)

 

 聖書は、神のひとり子イエス・キリストのことが書かれた書物です。人の子イエスの初めと終わりが書かれています。それは、神の霊感により与えられた、モーセの律法、預言書、詩篇に書かれています。

 

 旧約聖書には、神が遣わされるメシアの始まりが書かれています。アブラハムの契約から始まった信仰の義人の歴史と、その信仰の子孫イスラエルに遣わされるメシアのしるしについて記されています。

 罪に落ちた「人」は、死の道を歩んでいます。人は必ず死ぬことが定められているのです。二ムロデのように悪い者だから、滅びるのではありません。すべての人は、神に罪を犯したので、死と裁きが定まっているのです。すべての人は、生まれ出たときから、すでに、死と裁きが定まっています。

 

 神は、死と裁きが定まっている悪魔の手に陥った人を、罪の悔い改めと神への信仰によって救おうとされました。そして、神のひとり子イエスを、救い主キリストとして、世に遣わす御計画を、アブラハムの子孫イスラエルに告げられたのでした。

 

 新約聖書には、旧約聖書に記されているしるしどおりに遣わされたメシアのことが書かれています。モーセの律法と預言書と詩篇に書かれていることは、神のひとり子イエス・キリストによって、成就しました。

 

 神のひとり子イエス・キリストが、御救いのわざを完成されました。人のすることは、御救いのわざを完成してくださった神の御子イエス・キリストを信じ、自分の罪を悔い改めて神に立ち返ることです。神が用意された神の子羊イエスの十字架の和解を受け入れ、罪を悔い改めて神との関係が正されることです。

 

 真理とは、人間から出たものではありません。なぜなら、人間は死ぬ者です。

 死んで他界する者から真理は出て来ません。なぜなら、真理は永遠不変のもの、普遍のものです。永遠に継続するもので、無くなることも、変わることもないものだからです。

 人間は、短い一生の間にも、変化します。また、寿命が来れば、否が応でも世から去らなければなりません。人間の世界に、永遠はないのです。人間の世界に、真理はないのです。

 

 真理というと、偽りがなく混じり気のない純粋な原理原則を思い浮かべます。世が終わっても貫かれる、終りのないものです。真理は永遠のものです。

 

 聖書は神のことばであり、真理ですが、真理は文字ではありません。文字で現わされた真理である聖書は、真理を証するものです。真理(神)を悟れない人間に、真理(神の御子イエス)を告げる養育係の役割を担っています。

 

 聖書を守ることに厳格なユダヤ人のことを、「あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、御心を知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している。」(ローマ2:17-19)と、パウロは言っています。

 

 律法(聖書)は、神の知識と真理の具体的な形のようです。聖書に中に真理があるのです。世の中に置かれた唯一の真理は、聖書として、神の民に与えられたものです。聖書のことばは、三千五百年以上前のモーセの時代の人々にも、二千年前のイエスの時代の人々にも、また、現代の人々にも、どの世代の人々にも変わることのない真理です。聖書のことばは、聖書が与えられたユダヤ民族にも、イエス・キリストによって聖書を信じたほかの民族の人々にも、聖書を信じていない人々にも、普遍的な真理です。

 

 聖書は、神の知識と真理の具体的な形であって、これから現われる真理(神のひとり子イエス・キリスト)に導くための養育係なのです。

 神の知識も真理も、始まりも終わりもなく永遠に生きておられる神御自身です。真理は神であり、神が真理なのです。真理の神が、御自分のひとり子を聖書をお与えになったユダヤ民族のところに遣わされました。真理の神から生まれたひとり子もまた、真理なのです。

 

 イエスは、永遠におられる天の神が遣わされた神のひとり子であり、永遠不変な神の御子です。

 聖書は、真理(神の御子キリスト・イエス)が世に来られることを告げており、イエス・キリストを信じるならば、闇の世からいのちの光に移ること、永遠のいのちを得ることを伝えています。

 

 イエスは言われます。

 「あなたがたは、まだ一度も父(神)の御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことば(聖書)をあなたがたのうちに留めてもいません。父が遣わした者(神の御子イエス)を信じないからです。

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(キリスト)について証言しているのです。

 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたし(神の御子イエス)のもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:37-40)

 

 「律法には後に来るすばらしいもの(神の御子イエス・キリストと天の御国)の影はあっても、その実物はない。」(へブル10:1)と聖書は言っています。聖書の実体は、文字ではなく、生ける神のことばとしての、神のひとり子イエス・キリストなのです。

 

 イエス・キリストを信じることが、真理を得ることです。信仰によって、神のひとり子イエス・キリストに繋がり、真理の御霊を受けて、真理とひとつとなるのです。

 

 「律法(文字)は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

 しかし、信仰(キリスト・イエスを信じる信仰)が現われた以上、私たちはもはや養育係(律法)の下にはいません。

 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもなのです。」(ガラテヤ3:24-26)

 

 神のひとり子イエス・キリストを信じる信仰と、真理の御霊を受けることによって、真理のただ中に入り、私たちも真理の一部となるのです。