ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

土台に旧約聖書をおく信仰

 

 聖書のみことばを教義の中に取り入れている宗教は多くあります。キリスト教以外の宗教でも聖書のみことばが話されます。キリスト教の経典としてのみことばとしてではなく、知恵の言葉として知られています。

 

 聖書のみことばは、人を造られた創造主のことばであり、すべての人に当てはまる普遍の真理だからです。キリスト教を信じず、聖書の神を信じない人々にも知恵を与えます。

 

 「豚に真珠」や、「求めよ。そうすれば与えられる。」や、「目からうろこが落ちる」や、「狭い門より入れ」など、聖書を知らない人でも知っています。

 

 聖書のみことばは、聖書の権威(神のことばとして捉える)を認めない人にとっても、核心を突いた本質を言い表す言葉として納得するものだからです。真理の言葉なのです。

 

 真理の言葉とは、嘘偽りのない真実を言い表す言葉であり、揺るぎない事実を明らかにしている言葉であり、真実を証明する言葉なのです。真理ですから、時代によって意味合いが変わる人間の使う言語とは異なります。不変のものです。また、生けるものすべて、また、死んだものにも有効な、普遍的な言葉です。

 

 永遠に変わることのない、永遠に生きられる絶対的存在である神から出たことばだからです。人から出たものは、人が死んで朽ちて行くように、やがて消えて無くなります。しかし、神から出たものは、永遠に残るものです。

 

 永遠のお方からは、永遠のものが出て来るのです。限りのある者から出て来るものは、限りのあるものです。人には永遠のように見えて、千年、二千年、‥と時が経つと、形は崩れ、原形をとどめて置くことができません。

 

 真理とは、永遠に変わらぬものから出て来たものであり、また、その真理を生み出した神御自身のことをさします。

 

 聖書のみことばは、真理である神から出た、真理の言葉です。

 イエスは、聖書(旧約聖書)のことばについて、こう言っておられます。

 

 「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)

 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 だから、戒めのうち最も小さいもののひとつでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:18-20)

 

 天地が滅びることは、聖書のみことばが無効になることよりも容易い。また、天地がある限り、聖書のみことばが無効になることはない、と言っておられます。天地が存在している間は、聖書のみことば、律法は有効であると言っておられます。

 

 なぜならば、神は、すべての神のみことばを成し遂げると言っておられるからです。旧約聖書のことばで、まだ、成就していないみことばがあるならば、旧約聖書のことばがすべて成就するまで、ユダヤ民族を支配します。

 

 十字架につけられたナザレのイエスが神の御子、主キリストであることを信じないユダヤ人たちは、律法の下に留まっています。

 

 「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ書2:21)と、キリスト・イエスに改心したパウロは言います。

 

 このパウロは、かつて、律法を守ることに厳格なパリサイ人でした。イエスの弟子たちを迫害するほどに熱心なユダヤ教徒だったのです。パウロは、神の義を得るために、熱心に神に仕えました。

 

 しかし、主イエスの啓示の光に照らされ、目からうろこのようなものが落ち、真理を見る目が開かれたパウロは、十字架につけたナザレのイエスが、神がイスラエルに約束しておられたメシア、主キリストであることを悟ったのでした。

 

 律法も聖書も、神の御子を悟るためでした。神が世に遣わされた救世主キリストを信じて神に立ち返り、永遠のいのちを得るために書かれていました。

 

 主キリストを心に迎え、キリストのいのちと信仰に生きる者とされ、キリストの御霊によって新しく生まれ変わったパウロは言います。

 「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 私は神の恵みを無にはしません。」(ガラテヤ2:19-21)

 

 律法によって義を求めていたパウロは、律法によっては義が得られないことを知りました。神の義は、人間の努力や知識や知恵で得ることはできないのです。

 

 神が義と認められる「義」は、神の御霊が与える義です。キリストの御霊によらなければ、だれひとり、義人となることはできないのです。罪ある者は、だれひとり、義とされることはありません。

 

 律法全体を守らなければ、義とされることはありません。一つの律法を破れば、律法全体を破ったことになるのです。人の一生で、一つも罪を犯さないでいられる人はいません。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」というのが、神の律法です。

 

 この神の律法を、一つも違反することなく、完全に守った方がおられます。ナザレのイエスです。人の子となってイスラエルに来られた、神のひとり子です。イエスが、律法を完成しました。この律法の完成者イエスが、罪人の身代わりに、罪の生贄の子羊となって、贖いの血を流してくださったのです。

 

 神は、神の子羊イエスの贖いの血を、神の義とされました。罪の無い全き血です。それで、神の子羊イエスの血を受けた者、ナザレのイエスの十字架の死による救いを信じた者、イエスを神の御子救い主であるという信仰を持つ者、イエスを主キリストであると告白する者を、神は、その信仰によって義とされるのです。

 

 「神である主は語った。アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)

 

 神である主が、神のひとり子を世にお与えになった。人は、主に遣わされた神の御子イエスを信じた。主はそれをその人の義と認められるのです。

 律法を守ることによってではなく、神が遣わされた救い主、主キリストを信じる信仰によって、人は義とされるのです。

 

 主キリスト・イエスに出会っていないユダヤ人たちは、新しい律法(キリストの御霊による信仰)を受けていません。それゆえ、彼らにとって、律法が養育係なのです。

 

 神の預言者のことばは、神が保っておられます。地に落ちることはありません。

 「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」(サムエルⅠ 3:19)

 神から出た預言者のことばは、必ず成就するのです。

 

 旧約聖書のことばは、律法の下にいるユダヤ教徒にとって、まだ、生き続けています。死んだことばではありません。主イエス・キリストにおいて、完成されたものですが、また、完成されるものでもあるのです。

 

 ユダヤ人たちは、主キリストの来臨と、エデンの園の回復を待ち望んでいます。ユダヤ人たちが、主キリストが、十字架のナザレのイエスであることを悟り、「主よ、来たりませ。」と呼び求めるとき、主キリストは、天の軍勢を引き連れて地に来られ、悪魔の軍勢を滅ぼし、旧約聖書のみことばを成就されます。

 

 旧約聖書のみことばの完成が、千年王国を実現させ、聖書のすべてのみことばが実現すると、天地が滅びるのです。

 

 世の終わりまで、旧約聖書のみことばは有効なのです。このみことばの成就として、主キリストが現われ、新約聖書が記されました。

 

 新約聖書に記されているイエスのことばは堅く立ち、イエス・キリストの黙示(ヨハネの黙示録)の成就は、旧約聖書のみことばの成就とともにあるのです。

 

 イエス・キリストの救いは、旧約聖書と新約聖書を貫いた契約であり、神(創造主にして裁き主であられる唯一の主なる神)の救いの一貫する約束であり、旧約、新約合わせた「聖書」に基づくものなのです。