ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

少数派

 

 一つの教えが全体を支配し安定した頃に、新たな主張が生まれます。それは、行き渡った教えの中核にあるものを明るみにします。異端とは違います。真理が浮上してくるのです。

 

 バビロンに捕囚されたユダヤ人は、七十年後に、神殿が崩壊したイスラエルの地に帰還しました。

 ユダヤ人は、異教のバビロンの地で、きらびやかで栄華に満ちたバビロンの偶像の神々と、聖なるイスラエルの神の違いをはっきりと悟りました。人間の目に華やかで豊かに見られるバビロンの神々には聖さがありません。偶像の巣窟のようなバビロンに来て、神を意識しました。

 

 イスラエルの地にいて、偶像の神々を拝んでいたときには、感じることのできなかった霊的な違いです。イスラエルは、生けるまことの神に仕えるように召された民です。そして、イスラエルの神は、ユダヤ民族にカナンの地(現イスラエル)を与え、エルサレムを御自分の御住まいとしておられる神です。

 

 イスラエルの神は、モーセに十戒を与えてイスラエルを御自分の民とされてから、イスラエルに祝福と呪いの誓いの契約をもって、神の聖なること義なることを教えて来られました。

 

 イスラエルは、神が与えられた律法を守るのに苦心しました。そして、律法の順守を要求されないで律法の違反で苦しむことなく、偶像の前で喜び楽しむ外国の民を羨みました。それで、イスラエルもまた、偶像の神々を慕いました。

 その結果、偶像の神々によって神に与えられたイスラエルの地を汚したユダヤ人たちは、神の御手によって、バビロンの地に移されたのでした。

 

 神に与えられたイスラエルの地は、神が御目を留めておられる神の地です。それゆえ、イスラエルの地で偶像の神々を拝んでいる間は、まだ、イスラエルの神の覆いの中にありました。

 しかし、「イスラエルの神」のおられないバビロンの地に移されて、初めてイスラエルはイスラエルの神の覆いから外れたのです。その時、イスラエルの神の恵みに気づきました。そして、イスラエルの神を慕い求めました。神の神殿が崩壊されたことを知ったユダヤ人たちは、自分たちがイスラエルの神に犯した罪を悟り、バビロンの地で悔い改め、彼らの心から偶像の神々を取り除いたのです。

 

 バビロンの地で、心が洗い清められたユダヤ人たちは、神殿を再建しました。彼らの心はイスラエルの神とともにありました。

 新しい心になったイスラエルは、神の神殿でイスラエルの神を礼拝し、イスラエルの神だけに仕える民となったのです。

 

 イスラエルの神だけを神としたイスラエルは、神に与えられたモーセの律法を守ることを信仰としました。イスラエルの信仰が神の律法と結びついた時代のあとで、イスラエルはローマ帝国の属州とされました。

 ユダヤ人たちは、イスラエルの神が約束されたメシアを待ち望んでいました。ローマの圧政から救い出してくださるはずです。そんな時代に、神の御子イエス・キリストがお生まれになりました。

 

 祭司も律法学者もパリサイ人たちも、聖書に精通した人々です。

 メシアとは、モーセがイスラエルに、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞(ユダヤ人)の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)と命じた方でした。

 それなのに、祭司たちは、真理(神のことば)を語るイエスを憎み、神が遣わされた神の御子キリストに聞き従わないどころか、イエスをキリスト(救い主)と信じることができずに十字架につけて殺してしまいました。

 

 祭司たちの罪によって、イスラエル全体が罪を犯してしまいました。神が遣わされたキリストを信じなかったのです。預言者たちが預言していたメシア、ダビデが詩篇に記していたメシアに聞き従わなかったのです。

 

 主イエスの弟子となった一部のユダヤ人たちは、イエスを信じないユダヤ人たちに迫害され、殺害されました。ユダヤ教の一派ナザレ派とみなされていたイエスの集団は、イエスが地上を去られた後に聖霊を受けて、律法の下にいるユダヤ教徒とは別物となりました。彼らは、律法の下にではなく、聖霊の御声に聞き従う者となったのです。聖霊は、彼らにユダヤ教徒の悟り得ない真理を明らかにして、主イエス・キリストを信じる信仰による義の道に導かれました。

 

 ユダヤ教徒からみたら、イエス・キリストを信じるユダヤ人は、異端者です。しかし、イスラエルの神は、神の御子イエスを主とする彼らを天の御国へと導かれます。

 

 やがて、異邦人信者の増加とともに、割礼の民ユダヤ人は無割礼の異邦人信者から否定されて、教会から去って行きました。

 キリスト教会は、ユダヤ人を排除し、イスラエルが結んだ神の契約の土台を取り除き、救世主イエス・キリストを信仰の土台に置きました。そして、イスラエルの神の存在は異邦人信者から隠されました。

 

 ユダヤ人を迫害し、イスラエルの神の契約を踏みにじるキリスト教会は、イエス・キリスト中心の信仰から、司祭や教会中心の信仰に取って代わり、人々はイエス・キリストの御名を使って教会信仰へと移行しました。天にあるものの信仰から、教会を神と等しい神に代わる権威とする信仰、地に属するものとなっていったのです。(主イエス・キリストが中心におられる教会ではなく、聖書を土台とした人間の教えの教会となっていったのです。)

 

 信仰による義を主張する群れが起こりました。神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、という原点に戻りました。

 従来のキリスト教会は大きな群れとなって世界を覆っていました。信仰の原点に戻ることを主張する新しく生まれた小さな群れは、長い間、従来のキリスト教会から異端と考えられてキリスト教会として認められていませんでした。しかし、神は、この小さな群れを愛されました。

 

 従来のキリスト教会から分離した新しいキリスト教の群れも成長して、世界に広がりました。彼らは、聖書に忠実な群れを目指し、真理を追究しました。

 一方、イエス・キリストを拒絶したユダヤ教徒(ユダヤ人)のうちに、パウロのようにイエスが現われ、十字架のイエス・キリストが主であることを悟る者たちが起こされました。

 また一方で、異邦人の教会の中で、イスラエルに対して正しい知識を受ける者が起こされました。ユダヤ人は神に捨てられていない。イスラエルの神は、イスラエルにお与えになった約束を成就される真実な神であり、イスラエルの国を再興して、ユダヤ人を集められると知ったのです。彼らは、聖書のみことばを信じて、イスラエルの回復のために祈りました。

 しかし、真理が開かれていない教会に、混乱が起きました。そして、イスラエルのことをタブー視しました。イスラエルのことに触れると、教会が分裂すると思ったのです。

 しかし、神は、イスラエルを祝福する小さな群れを心に留められました。そして、イスラエルの神(聖書の神)は、聖書の預言通りに、ユダヤ人の国(イスラエル)を先祖アブラハムにお与えになった約束のカナンの地(現イスラエル)に建国し、離散したユダヤ人を集め始められました。

 教会がイスラエルの奥義(神の御計画)に目が開かれはじめると、真実な心で神を求め、真理を求める異邦人の教会の中に聖霊のバプテスマを受ける人々が起こされました。聖霊のバプテスマを封印していたキリスト教会に、キリストの御霊が下されたのです。

 しかし、長い間、封印されていたため、聖霊のバプテスマは使徒時代の話であって現在では起こらない、と考えられていました。それで、聖霊を受けた人々は、悪い偽りの霊を受けたのだと中傷され、否定されました。

 

 聖霊のバプテスマを否定する教会と、聖霊のバプテスマを奨励する教会に分離しました。もともと聖霊のバプテスマは終わったものと考えられていたので、聖霊のバプテスマを受ける者を異端者扱いしました。キリストの霊ではない、ほかの霊を受けたのだと思ったのです。

 

 しかし、神は、聖霊のバプテスマを信じ、聖霊を受ける者を義とされるのです。聖霊を受けることを拒む者や、聖霊を否認する者は、神が遣わされた御子イエスを拒絶したユダヤ人と同じく、不信の罪に問われます。

 

 聖霊(キリストの御霊)は、神が聖徒のために遣わされた方だからです。神が遣わされた聖霊を信じない者は、聖霊を遣わされたイエスの父なる神とイエスのことばを信じない者です。

 イスラエル(ユダヤ人)を憎む者、呪う者は、イスラエルを造られたイスラエルの神(イエス・キリストの父)を呪う者です。

 

 神は、選びの民のうちから真実なものを選び分けながら、真理に導き、新しい創造を与えて、天に引き上げる新しいイスラエルを完成されるのです。神は、神の民を、神の霊(聖霊)によって、真理にふさわしく建て上げ、打ち壊し、本当に良いものを集められます。

 

 新しいものとされるとき、いつも、神の選びは少数派です。何が神に受け入れられることなのか、真実な心で真理を求め、御霊にあってよく吟味し、真理を握って離さない者たちによって神の御国は堅く立つのです。