「相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
しかし、定めの時が来たので、神は御自分の御子(ひとり子)キリスト・イエスを遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者(ユダヤ人)を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(ガラテヤ4:1-7)
聖書は、神の御子キリスト・イエスに対する信仰によって、信じる人々は神の子どもである(ガラテヤ3:26)、と言っています。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされた人々はみな、キリストをその身に着たのであり、ユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もなく、律法の下にいる者もいない者も、キリスト・イエスにあって、一つです。(ガラテヤ3:27,28)
キリストの十字架は、神と契約を結ぶ律法の下にいるユダヤ人と、契約のない無割礼の異邦人との間の敵意を廃棄しました。律法の下にいる神の民(ユダヤ人)が聖であり、戒めの律法を持たず神の民に数えられない異邦人は不義である、というものではなくなりました。
イエスは、この二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させられたのです。(エペソ2:16)お互い(ユダヤ人と異邦人)の敵意は、神の御子イエスの肉が裂かれ血を流すことで、葬り去られました。イエスは、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊されたのです。
それゆえ、イスラエルの家の滅びた羊(イスラエルの失われた羊)のところに遣わされていた神のひとり子イエスの福音は、イスラエルの囲いの外にいる失われた羊(囲いに属さないほかの羊)にまで及ぶものとなりました。
神のひとり子イエス・キリストは、ご自身の裂かれた肉と流された血において、二つのものを新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現されます。
律法の下にある者(ユダヤ人)となられたイエス・キリストは、律法の下にある者(ユダヤ人)を罪の呪いから贖い出されて、贖われたユダヤ人たちが神の子としての身分を受けるようにされました。そして、キリストの血は、律法の下にいない者たちの罪をも贖い、罪の赦しを受けて神の子としての身分を受けるようにされたのです。
イエスは、この約束を確かなものとするために、御父にお願いされました。イエス・キリストを信じた者といつまでもともにおられる、「もうひとりの助け主」をお与えくださるように、ということです。
(イエスは世を去りましたが、イエスを信じる人々から離れてしまうわけではありません。なぜならば、イエスは、「あなたがたを捨てて孤児にはしません。」⦅ヨハネ14:18⦆と言っておられるからです。)
その方は、真理の御霊です。世の知らない方です。神は、土の器である私たちのうちに、永遠に輝くいのちの御霊を住まわせてくださるのです。朽ちて行く肉なる私たちのうちに、永遠に生きておられる真理の御霊がともにいてくださるのです。不信実な肉なる者のうちに、真理を入れてくださるのです。
この助け主(真理の御霊)は、御父がイエス・キリストの御名によってお遣わしになる聖霊であり、私たちにすべてのことを教え、また、イエスのことばを思い起こさせてくださいます。私たちのうちに住まわれる御霊によって、神の知恵と神の知識を天から引き出すことができます。
また、御霊は、神のひとり子イエス・キリストを信じる私たちを主キリストと同じ姿に造り変えてくださいます。
「人が主イエス・キリストに向くなら、その覆いは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。⦅ヨハネ8:32⦆)
私たちはみな、顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きです。」(コリント二3:16-18)
イエスは、御父とひとつでした。神のことばとひとつでした。イエスは、十字架の死に至るまで、御父に聞き従う従順な神の御子です。「アバ、父。」と父なる神を呼ぶ神のひとり子です。イエスは、御父を愛する者でした。御父と御子イエスと御霊は、ひとつの愛です。引き離すものはありません。
神の御子イエスと同じかたちに姿を造り変えられる御霊は、私たちを「アバ、父。」と呼ぶ神の子どもに造り変えてくださいます。御霊は、キリストの信仰を私たちのうちに入れて、人の子イエスの御思いを得させてくださいます。
神は信じるもの、と思う人が多いでしょう。偶像の神々を拝む人なら、尚更そうです。しかし、神の御霊は、私たちの霊を、神の愛を疑わず全き信頼をもって「天のお父様」「お父ちゃん」と親しげに呼ぶ子どもの霊に造り変えてくださるのです。
「天のお父様」という表現は、祈りの言い回しではありません。本当に、心からお父様と信じて、御父に呼びかけるのです。
「天のお父様」と祈るごとに、ますます、父なる神に心を許して信頼し、御父を愛する子どもとされ、神は愛するお父様とされていくのです。
神のひとり子イエス・キリストは、常に、御父の栄光、御父がほめたたえられることを望んでおられました。
「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11)
父なる神は、贖いの子羊イエスをメシアとし、すべての名にまさる権威と、主権を与えられます。
御使いも、神の子(御霊に創造された新しい子ども)らも、墓に眠る聖徒らも、すべてのものがひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは、私たちの主です。私たちを治められる王の王、主の主です。」と告白して、新しい創造を完成された父なる神をほめたたえるためです。
「イエス・キリストは主である。」との告白は、イエスを遣わされた父なる神をほめたたえることのようです。イエスは、ご自分の栄光を望んではおられません。父なる神がほめたたえられることを望んでおられるのです。
イエスは、使徒たちに言われました。
「わたし(イエス)は、あなたがたがわたしの名(イエス・キリストの御名)によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13)
イエス・キリストの御名によって祈る祈りが聞かれ、神のわざを見ることは、イエスの栄光のためではありません。イエスは、ご自分の栄光を望んではおられません。イエスは、ご自分の御名によってなされる神のわざを体験する者が神をほめたたえて、御父が栄光をお受けになることを望んでおられるからです。
御霊によって造り変えられる者は、イエスのごとく、自分自身の栄光ではなく、父なる神の栄光を望む者とされていきます。
それは、神のひとり子イエス・キリストのごとく、父なる神を愛する者に造り変えられるからです。