「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼(イエス・キリスト)に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
この方(イエス・キリスト)について、私たち(使徒たち)は話す(伝える)べきことをたくさん持っていますが、あなたがた(天の召し〈神の契約である民族的御救いと神の祭司の国民としての務め〉にあずかっている聖なる兄弟であるユダヤ人たち)の(信仰の)耳が鈍くなっているため、解き明かすことが困難です。(生ける神の声を受け取ることのできない鈍い霊の耳のユダヤ人たちに、イエスの使徒たちが真理を解き明かしても、ユダヤ人たちは悟ることができません。)
あなたがたは年数からすれば教師となっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。(モーセの律法をおよそ千三百年の間守って来たユダヤ人たちは、神の祭司の国民として、異邦人たちに神の御計画と御救いの福音を教える教師になっていなければならないにもかかわらず、生ける神を悟らず、真理に暗いので、神の契約と約束をもう一度だれかに教えてもらう必要があります。)あなたがたは堅い食物(生ける神のことば)ではなく、乳(どう生きるべきかを教える律法)を必要とするようになっています。
まだ乳(文字の律法)ばかり飲んでいるような者はみな、義の教え(神がイスラエルに約束された罪の贖いとメシア)に通じてはいません。幼子なのです。(神の御心を悟る大人になっていません。)
しかし、堅い食物(人に教えられたことをそのまま信じて守る先人の教え〈律法〉ではなく、自分の霊において生ける神のことばを受けて神御自身に教えられる神の教え)はおとなの物(成熟した信仰者の物)であって、経験(生ける神との体験)によって良い物(神に喜ばれる事柄)と悪い物(神の憎まれる事柄)とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(へブル5:7-14)
霊的に成長しておらず、信仰の鈍くなったユダヤ人たちは、神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを悟ることができませんでした。すなわち、キリストによる救いを理解することができませんでした。そして、ユダヤ人たちは、十字架につけたナザレのイエスがイスラエルの罪を贖う主キリストであることを信じませんでした。
ナザレのイエスは神の御子であられるお方なのに、神の祭司の国民ユダヤ人たちから苦しめられました。そして、その苦しみによって、どんな状況でも神にへりくだり聞き従う従順を学ばれ、神の御心にかなう完全な人の子とされました。
神の御子イエス・キリストは、この完全な人の子(神の子羊イエス・キリスト)に従うすべての人々(イエスを神の御子キリストと信じて、主イエス・キリストに聞き従うユダヤ人や異邦人)に対して、とこしえの救いを与える者(救世主)となられ、全知全能の神(イエス・キリストの父なる神、すなわちイスラエルの神)によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
イスラエルの神は、神の子羊イエス・キリストに仰せられました。
「あなた(神の子羊イエス)は、わたし(イスラエルの神)の子。きょう、わたし(神)があなた(キリスト)を生んだ。」(詩篇2:7)
神によって生まれた「キリスト」は、十字架で罪を贖った神の子羊イエスの死から甦られた、「人の子の新しい創造」、すなわち、神が神の子羊イエスと聖霊によって造り変えられた「神の子」です。
御霊によって生まれ、霊のからだ(復活のからだ)をいただき、永遠のいのちによって生きる神の子どもです。この新しい創造は、神の御子イエス・キリストにあって肉に死んだ魂が、生かす御霊によって新しく生まれた人の子(新しい創造)そのものの姿です。
「別の個所で、こうも言われます。
『あなた(神の御子イエス・キリスト)は、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」(へブル5:6)
イスラエルの神が、神の祭司の国民イスラエルに遣わされた、世の罪を取り除く(罪の贖いの)神の子羊イエスは、十字架で贖いのわざを成し遂げられた後、死から復活して、天のまことの聖所に入られました。
キリストとなられた神の子羊イエスは、神と人との仲介者であられ、神の御前で民のために執り成す、とこしえの祭司となられました。
世の罪を取り除いたイエス・キリストは、天に上り、今も神に仕えておられます。まことの聖所で仕えるとこしえの祭司なのです。
それゆえ、神は、主イエス・キリストに従うすべての人々に対して、神の子羊イエス・キリストがとこしえに救いを与える「救世主」となられたことと、また、主イエス・キリストが「メルキゼデクの位に等しい大祭司」であると、神御自身が主張されるのです。
イエスの弟子たちにはっきりと示されたこれらの真理を、乳(モーセが与えた文字の律法)ばかり飲んでいるようなユダヤ人たちは理解できません。石に書かれた律法にこだわり、霊が頑なになっているため、生ける神の新しい律法を受け入れることができません。律法の知識に塞がれたユダヤ人たちは、霊が閉じてしまっているのです。それゆえ、霊として存在される生ける神を悟ることができませんでした。
彼らは、モーセのようなもうひとりの預言者イエス・キリストが教える義の教え(罪の贖いと天の御国に入るための教え)に通じることはありません。
この世の教えでは、他人に頼らず、自分の知恵と力で自立した者をおとなと言います。そして、他の人の面倒をみることのできるおとなを成熟した人と言います。
しかし、神の国では、自分で判断し自立して立つ者を、乳を飲む幼子と言い、すべてのことを神に聞き、神のことばによって立つ者をおとなと言います。そして、律法の教えだけでは、義の教えに通じていないと言うのです。
神の義を受けるためには、律法を完成することではなくて幼子のように素直に神が遣わされた神の御子イエスのことばを聞き、イエスのことばに従うことだと聖書は言います。
神の国では、おとなとは、自分で考え、自分で判断し、自分の力で行ない、自分自身で責任を持つことではないようです。それは、善悪を知る知識の木の実を食べた者のわざです。自分の力で立ち、自立し、だれからも立派だと尊敬されることは、神の国では小さなことです。
神の国では、自分の知識や力や経験や判断を神の御前に置いて自分に死ぬこと、そして、神を頼みとして、知恵も判断も時も成すべきことも、イエス・キリストが父に従順に聞き従われたように、キリストの御霊にゆだね聞き従うことが、成熟した者なのです。
自分の力で成す者は幼子。神に聞き従う者がおとな。幼子のように純真な心で、神を仰ぎ、神のことばを待ち望み、神のことばに聞き従う従順な信仰者が成熟した者です。
人間の教えとは異なりますね。
専門家が読み解く文字の律法の難しい教えが「乳」で、幼子でもわかるイエスの愛と赦しのことばが「堅い食物」とは、人間の思考をひっくり返すようなことではありませんか。
イエスは言われました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことにあなたがた(弟子たち)に告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ10:14,15)
天の御国ではだれが一番偉いのかと尋ねる弟子たちに、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼ら(弟子たち)の真中に立たせて、言われました。
「まことに、あなたがた(弟子たち)に告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:3,4)
子どもは理屈をつけません。自分が小さい者だと知っているので、おとなよりも偉くなろうとは考えません。彼らには、おとなの助けと守りが必要なのです。子どもはすがることを知っており、悔い改めることを知っています。それが、自分の身を守る安全な生き方であることを知っているからです。彼らには、おとなの覆いが必要です。
一方、おとなは経験とプライドで、自分を低くすることができません。理屈を言います。自分で自分をかばい、自分の立場に固執して謝ることができません。また、神の用意された物を素直に受け取ることができません。自分の経験と知識によって猜疑心を持ち、自分の信念に執着し、新しい教えを拒みます。
イエスがお与えになる教えは、幼子のように純真で、自分を低くし、素直に悔い改める者に受け入れられます。
そのような者たちが、天の御国に入るのです。
素直な心でイエスの教えを受け、主イエス・キリストにすがって御霊の導かれる道を歩む中で経験した失敗と達成を積み重ねるうちに、神からのものかそうでないものなのかを見分ける感覚が養われていきます。
堅い食物(御霊の声に耳を傾け御霊に聞き従う訓練を受けて霊的に成長した者が食べるイエス・キリストのみことば)は、御霊によって導かれる者の霊を養い真理を悟らせ、成熟した者に成長させます。
知識がある者よりも、心の素直な者の方が、先に成熟した者となるのでしょう。自分を低くして神にへりくだる者が、その道(神の御霊に訓練される信仰の道)に入って行くのでしょう。