ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救世主キリストが与える新しい律法

 

 「キリストは聖なるものとされる人々(とこしえの御霊の教会)を、一つの献げ物(罪を取り除く神の子羊イエス・キリストの贖いの血)によって、永遠に全うされた(ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた〈ただ一度で成し遂げられた〉)のです。

 聖霊(神が遣わされるもうひとりの助け主、真理の御霊)も私たちに次のように言って、あかしされます。

 『それらの日の後(過越しの子羊イエスを屠って罪の贖いの血を注ぎ、罪の贖いのわざを完了した後で)、わたし(創造主であるイスラエルの神)が、彼ら(神の民イスラエル)と結ぼうとしている(新しい)契約は、これであると、主は言われる。

 わたし(神)は、わたしの律法(真理の御霊)を(神の御子イエス・キリストを愛する)彼らの心に置き(宿し)、彼らの思いに書きつける。(彼らの心に御霊による新しい律法を書き記す。)』

 またこう言われます。

 『わたし(神)は、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはない。(心に御霊の律法が書き記される新しい契約に入る者の罪は、キリストの血によってすでに贖われており、神は彼らを義とされる。)』

 これらのことが赦されるところでは、罪のための献げ物はもはや無用です。」(へブル10:14-18)

 

 イスラエルと契約を結ばれた神は、律法の違反に苦しむイスラエルをご覧になって、神の御子イエス・キリストの十字架の御救いのわざの六百五十年ほど前に、預言者エレミヤを通して、新しい契約を与える約束をしておられました。

 

 「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、(奴隷の家)エジプトの国から連れ出した日に、(荒野で)彼ら(モーセやイスラエルの先祖)と結んだ契約のようではない。わたしは彼ら(ユダヤ民族)の主であったのに、彼ら(イスラエル)はわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―

 彼らの時代(モーセが結んだ契約に立ち、神の神殿に仕え、モーセの律法を守ることを義とし、神の掟と定めを伝承するイスラエルの時代)の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法(真理の御霊)を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。(彼らを、生ける神との交わりを持ち真理の御霊に聞き従う信仰の人とする。)わたし(全能の主、イスラエルの神)は彼らの神となり、彼ら(真理の御霊を宿す人々)はわたしの民(イスラエル)となる。

 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。(モーセの律法のように、子から孫へと子々孫々伝承するものではなく、ひとりひとりの心に真理の御霊を置くので、おのおのが御霊によって教えられる。それゆえ、みなが神を知る者となる。)

 ―主の御告げ。―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:31-34)

 

 モーセの律法を守ろうとしても、律法の全体を守ることができません。守らないことが一つでもあれば、律法を守らない律法の違反者となるからです。律法を完全に守る者はいないのです。すべての点で完璧な人はいないのです。

 神の望みは、神の民が神の霊によって完全な者とされることです。人間の努力や熱心ではありません。神への信仰によって、契約は完成します。

 

 イスラエルは、律法を守るのに不完全なものです。不完全なイスラエルの姿は、すべての人間の姿そのものです。神は律法の違反者を裁かれます。奴隷の家エジプトから連れ出し、イスラエルに律法を与えたモーセでさえ、神を聖としなかったという理由で、荒野で息絶えました。神は、モーセにカナンの地に入ることを許されなかったのです。

 このままでは、神の民は消滅してしまいます。すべての者が失格者だからです。

 

 神は、イスラエルの罪を負うひとりのユダヤ人を造られました。処女から生まれた神の御子イエスです。

 なんと、処女マリアから産まれたイエスは、神の民イスラエルが造られる以前から、また、イスラエルの父祖アブラハムが生まれる前から、また、天地万物が創造される以前から、神とともにおられた神のひとり子です。

 イエスを産んだマリアを創造された神のひとり子です。イエスは、マリアの「主」でもある方なのです。神のひとり子が、被造物の中(マリアの胎)に肉体をもって宿られたのでした。

 

 神のひとり子イエスが人の子として造られたのは、イスラエルの神の律法を終わらせるためでした。イエスは、罪の違反者イスラエルの罪を贖うために、罪の贖いの子羊として遣わされたのでした。

 

 イエスは、神の律法を完全に守られた唯一のユダヤ人でした。ご自分では何事もなさいません。神に聞き、神のことばに従順に従われました。

 アダムとエバは神の命令にそむき、エデンの園から追放されました。神のことばから外れた状態で、人類の歴史は始まっています。

 神の子羊イエスは、神のことばから外れた人類史上、初めての完全な人でした。神のことばから、一度も外れたことがない全き人なのです。後にも先にも、このような人は出ていません。

 

 神は、この全き人を、罪の生贄の神の子羊とされました。罪のない神の子羊イエスの血は、すべての罪を贖います。

 イスラエルの違反の罪は、神の子羊イエスの贖いの血によって赦されました。イスラエルの律法の違反の罪を、神の子羊イエスが身代わりとなって負われました。イスラエルの罪は、イスラエルの罪の身代わりである「贖いの神の子羊イエス」を処刑することで赦されました。

 

 イスラエルは、全地で選ばれた神の民です。すべての民族の中の神の初子です。初穂がきよければ、すべてはきよいのです。それで、初子のユダヤ民族の罪が赦されて、義とされきよいとされることは、すべての民族の罪をもおおうこととなります。

 罪の贖いの神の子羊イエス・キリストの血は、世の罪を取り除く血なのです。

 

 かつて、イスラエルがエジプトを出るときに、羊の血が塗られたかもいと門柱の家の中にいたイスラエルは裁きが過ぎ越されました。羊の血が塗られていないエジプト人の家の中では、大きな叫び声があがりました。血のしるしのない家の中の初子は、みな打たれて死んだのです。

 

 神は、羊の血のしるしを見て、裁きを過ぎ越され、血のしるしのない家に裁きを下されました。

 同様に、神は、子羊イエスの血をしるしとされます。イエスを神の御子キリストと信じる者にはキリストの贖いの血が塗られており、真理の御霊が遣わされてその人のうちに住まわれます。イエスを否定する者に、神の子羊イエスの血のしるしはありません。彼らのうちに御霊は住まわれません。

 

 新しい契約は、キリストの血と御霊にあるのです。

 ユダヤ人の律法はひとりのユダヤ人イエス・キリストによって完成されました。文字の律法の時代は完了しました。神が用意された新しい契約は、新しい律法によって結ばれます。

 

 新しい律法は、モーセの与えた文字の律法ではありません。モーセの十戒は、石の板に神の指で書かれた律法でした。

 しかし、新しい律法は、神の御子イエス・キリストを信じる者の心の中に真理の御霊を置き、ひとりひとりの心に御霊によって書き記される、生ける神のことばなのです。律法がその人の中に置かれるのです。そして、律法を守ることができるように、御霊が助けてくださるのです。

 

 かつてのイスラエルの律法は、神の御子イエス・キリストが完成し、廃止されました。もはや、罪のための献げ物は無用となりました。

 

 キリストの御霊を宿す者は、キリストの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができます。

 かつての契約では、レビ人が神に仕え、祭司たちが聖所で礼拝しました。また、その年の大祭司が年に一度だけ、至聖所に入り、イスラエルの罪の贖いをしていました。

 新しい契約では、神の御子イエス・キリストを信じる者のうちに真理の御霊が置かれ、御霊を宿す者は、聖霊の器となり、神の神殿となるのです。キリストの御霊を宿すすべての者が祭司となり、大胆にまことの聖所で神の御前に出て、イエス・キリストの御名によって祈るのです。

 

 かつての契約は、神の子羊イエス・キリストが完成してくださいました。

 イエス・キリストがお与えになる新しい契約は、真理の御霊が完成されます。

 

 かつての律法は、救世主イエス・キリストが完成してくださいました。

 イスラエルの神が救世主イエス・キリストにあってお与えになる新しい律法は、真理の御霊(もうひとりの助け主)によって完成されるのです。

 

 荒野で結んだ神の契約は、アブラハム・イサク・ヤコブの血肉の子孫ユダヤ民族を神の民イスラエルとしました。また、文字の律法によって、救世主イエス・キリストを生み、罪の贖いをとこしえに成し遂げました。

 救世主イエス・キリストが与える新しい契約は、キリストの御霊である真理の御霊を心に置き、御霊によって真理に導き、いのちの道を歩む御霊の教会(とこしえのイスラエル)を生み、神の国を完成されるのです。

 

 新しい律法(真理の御霊)は、御霊の教会を生みます。そして、新しい契約は、御霊の教会と結ばれており、御霊はとこしえのイスラエルを創造するのです。

 御霊の創造する七つの御霊の教会は、新しいとこしえのイスラエルであり、神の子どもたちです。