ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

つまずきの石が礎の石となる

 

 「主(イエス・キリスト)のもとに来なさい。主は、人には捨てられた(ののしられ、卑しめられて十字架で殺された)が、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石(死と裁きとが定められた罪人の罪を贖い生かし永遠のいのちを与える、新しい信仰の礎石)です。

 あなたがたも生ける石(生かす御霊の器)として、霊の家(とこしえのイスラエル、すなわち御霊の教会)に築き上げられなさい。そして、聖なる(天の大祭司イエス・キリストに仕える)祭司として、イエス・キリスト(の御名)を通して、神の喜ばれる霊の生贄(感謝と賛美と祈り)を献げなさい。

 なぜなら、聖書にこうあるからです。

 『見よ。わたし(神)はシオンに、選ばれた石(神の家の信仰の礎石)、尊い(霊の家の)礎石を置く。彼(神の御子イエス・キリスト)に信頼する者は、決して失望させられることがない。』

 したがって、より頼んでいるあなたがた(新生したキリスト信者)には尊いものですが、より頼んでいない(御霊を受けていない)人々にとっては、『家を建てる者(神の家を建てる神の祭司の国民)たちが捨てた(生ける)石(すなわちキリストの御霊)、それが(とこしえの神の家の)礎の石となった。』のであって、『(神のことばにつまずく)つまずきの石、(真理の御霊を受けるのを妨げる)妨げの岩』なのです。

 彼らがつまずくのは、みことばに従わない(十字架にかかられた主を仰がない)からですが、またそうなるように定められていたのです。

 しかし、(キリストの御霊を受けた)あなたがたは、(世の初めから神に)選ばれた種族、王である祭司(神の御子キリストを王とする祭司の国民)、(神の子羊キリストの血で贖われた)聖なる国民、神の所有とされた(天の神に所属する)民です。

 それは、(キリストの御霊によって生まれた新しい創造の)あなたがたを、闇の中から、ご自分(神の御子イエス・キリストが父なる神〈全能の神〉から主権を与えられた天)の驚くべき光(真理の光)の中に招いてくださった方(神の御子イエス・キリスト)のすばらしいわざ(十字架の贖いのわざ)を、(御霊によって新しく生まれた)あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

 あなたがたは、以前は神の民(神と契約を持つ神の祭司の民イスラエル)ではなかったのに、(キリストの御霊を受けた)今は神の民であり、以前は憐れみを受けない者(死と裁きとが定められた罪人)であったのに、今は憐れみを受けた者(キリストの血で罪が贖われ永遠のいのちを得て神の子どもとされる者)です。」(ペテロ第一2:4-10)

 

 神道の神示に、弥勒(みろく)の世が来ることが書かれています。真の弥勒の世は神示を読む人々によって構成されるようです。

 聖書に書かれた、神の御子イエス・キリストが地上に来られて(再臨されて)治められる千年王国のことをさしているようです。千年王国(救世主キリストが治められる世界)の中で、キリストが王となられるとこしえのイスラエル王国を真の弥勒の世と言っているようです。

 

 仏教では、涅槃(煩悩から解放された世界、生死を超えた智慧の完成した悟りの世界)に、永遠の安息を見ています。また、仏教では弥勒菩薩がこの世に下って救済の必要な人々を救うとされる未来の世を望んでいます。

 仏教もまた、語句は異なりますが、やはり、聖書の千年王国をさしているようです。

 

 神道の教えの中にも、仏教の教えの中にも、弥勒の世(神の世)が地上に現われることが明記されています。神道にも、仏教にも、神の子羊イエスを遣わされた神、イスラエルに聖書をお与えになった、唯一の天の神が示しておられるようです。

 

 聖書は、ユダヤ人に与えられ、イスラエルに託されました。彼らは、天の神がお立てになられた、天の神の祭司の国民です。

 神は、聖書の約束どおりに、イスラエルの王ダビデの子孫に、救い主を遣わされました。肉体を持つ人の子となられた神のひとり子です。イスラエルが待ち望んだキリストです。

 

 キリストは、ダビデの町ベツレヘムに生まれ、異邦人も住むナザレの町で育ったイエスです。異邦人と聖別されたイスラエル(エルサレムの人々)は、異邦人の混在するガリラヤ地方の人々(イエスとイエスの弟子の一行)の教えに耳を貸しません。

 キリストは、異邦人と交際をしない純粋なユダヤ人、聖別されたユダヤ人の中にいるべきではありませんか。異邦人の混在する卑しいガリラヤ地方から、キリストが起こるはずがありません。

 

 ユダヤ人たちは、イエスのことばを信じませんでした。彼らの霊は閉じていました。律法の覆いがかかっていたのです。霊でことばを聞くのではなく、知識で捉えてつまずきました。彼らは、律法の知識で判断しようとしました。

 

 しかし、イエスは、生ける石でした。律法ではなく、恵みによって生かす神の御霊によらなければ理解できません。律法は生かす霊ではありません。生ける石ではないのです。霊の家の礎石ではないのです。律法の上に建て上げられる家は、霊の家(とこしえのイスラエル)ではありません。

 

 神が、キリストを遣わして建てようとされた神の家は、とこしえのイスラエルです。死と滅びから解放された神の子どもたちの家です。

 

 死ぬべき肉体のイスラエルは、霊の家の礎石(イエス・キリスト)を憎み、神の選びの民イスラエルに必要のないもの、忌むべきものとして殺し、捨てました。

 しかし、創造主であり裁き主であられる神の目には、神が選ばれた唯一のキリスト(救世主)、生かす御霊なのです。

 

 「万軍の主、この方(神の子羊イエス)を、聖なる方(神が遣わされた神の御子キリスト)とし、この方(イエス・キリスト)を、あなたがたの恐れ(従うべき主権者)、この方を、あなたがたのおののき(裁き主キリスト)とせよ。そうすれば、この方(神の子羊)が聖所(神の聖所、すなわちとこしえのイスラエルの家)となられる。

 しかし、イスラエルの二つの家(南のユダ王国の二部族と、北のイスラエル王国の十部族)には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民(祭司やパリサイ人たち)には、わなとなり、落とし穴となる。

 多くの者(聖書の民)がそれ(生ける石)につまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。」(イザヤ8:13-15)

 

 先の雨(イスラエルに注がれたキリストの御霊の降り注ぎ)では、(旧約)聖書の民ユダヤ教徒はつまづき、異邦人の救いが始まりました。

 終わりの雨(全世界に注がれるキリストの御霊の降り注ぎ)では、(新約)聖書の民キリスト教徒がつまずき、ユダヤ教徒や仏教徒、神道や神とともに歩んで来た少数民族、少数部族に神の御救いが完成されるように思われます。

 

 ナザレのイエスとガリラヤ地方の弟子たちがユダヤ人のつまづきの石であり、いのちの道に入るのを妨げる妨げの岩であったように、聖霊とイスラエルを祝福することがクリスチャンのつまづきの石であり、天の御国に入るのを妨げる妨げの岩となることでしょう。

 

 イエス・キリストの御霊は、神の霊をとらえて御霊を受ける人々に真理を教え、イエス・キリストの御救いを知らされるでしょう。彼らは、信仰によって永遠のいのちを得る御霊の教会のうちに建て上げられます。

 

 なぜならば、キリストの御霊が生ける石であり、霊の家の礎石(イエス・キリスト)の上に積み上げられて、とこしえのイスラエル(御霊の教会)は完成されるからです。

 

 御救いを与えるのは、ユダヤ教でもなく、キリスト教でもなく、仏教でもなく、神道でもなく、民族の神々でもなく、宗教ではありません。すべての宗教を覆う神の恵みです。ユダヤ教の中からも、仏教や神道やそのほかの宗教の中からも、神が救いに定めておられる人々が、キリストの御霊を受け、その中から出て来るでしょう。

 霊においてキリストの御霊を受け、キリストの御霊(聖霊)によって一つとされたキリストのからだが建て上げられます。キリスト教会がキリストのからだなのではなく、御霊の教会が復活するキリストのからだ、すなわち、神が選ばれたとこしえのイスラエルだからです。

 

 霊が目覚めていなければ、真理の御霊(キリストの御霊)を知ることはできません。真理の御霊を受けなければ、真理(神の御心)を知ることはできません。真理を悟らず真理の光のない暗い者がとこしえの霊の家(神の国)に入ることはできません。