ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神は御自分に属する者にわざわいをも与えられる

 

 イエスの弟子ヤコブ(初代エルサレム教会の代表者)は言います。

 「私の兄弟(ユダヤ人)たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブの手紙1:2-4)

 

 「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(ペテロ第一1:6,7)

 

 成長を遂げた完全な者は、主に信頼して、詩篇121:5-8によって告白して言うでしょう。

 「主は、私を守る方。主は、私の右の手をおおう陰。(自分自身がおのれの主となって自分の力で生きようとする知恵を隠される。)昼も、日が、私を打つことがなく、夜も、月が、私を打つことはない。(主は、わざわいが私を襲っても、神への信仰が消え失せることのないように、主に信頼する心を守られる。)

 主は、すべてのわざわいから、私を守り、私のいのち(永遠のいのち)を守られる。主は、私を、行くにも帰るにも(いついかなる時も)、今よりとこしえまでも守られる。」

 

 天の御国に招かれた者は、天の御国に入るのにふさわしい者とならなければなりません。

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2)

 「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を(御霊を消すことから)離れよ。」(テモテ第二2:19)

 

 「だれでも自分自身をきよめて、俗悪なむだ話や霊知と呼ばれる偽りの知識による反対論とを避け、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。」(テモテ第二2:21)

 聖められたものは、主人(神)にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

 

 目の前に起こることが自分の将来の姿ではありません。

 神は仰せられます。

 「わたし(神)はあなたがた(御救いの約束の信仰を持つ人々)のために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわい(滅び)ではなくて、平安(永遠のいのち)を与える計画であり、あなたがたに将来(永遠の御国)と希望(とこしえの安息)を与えるためのものだ。

 あなたがたがわたし(天の神)を呼び求めて歩き、わたしに祈る(天の神に救いを求める)なら、わたしはあなたがたに聞こう。(あなたがたの祈りに耳を傾け、答えよう。)

 もし、あなたがたが心を尽くしてわたし(まことの神)を捜し求めるなら、わたし(永遠のいのちを与えることのできる生ける神)を見つけるだろう。

 わたし(生ける神)はあなたがたに見つけられる。」(エレミヤ29:11-14)

 

 「主は御自分に属する者を知っておられる。」(テモテ第二2:19)

 神は、御自分に属する者たちのために、わざわいをもお与えになります。

 彼らの心にある不義を取り除くためであり、信仰の建て上げのための試みでもあります。

 

 神は、神の民ユダヤ人たちがバビロンに捕囚されることを許されました。そして、神は、バビロンに七十年の満ちるころ、ユダの捕囚の民を顧み、イスラエルに与えられた契約によって、神が約束された祝福を実現されました。

 

 わざわいは神の民にふさわしくないと考え、バビロンに捕らえられることを拒み、国(イスラエル)に残ったユダヤ人やエジプトの国に逃げて住みついているユダヤ人に、神は、剣と飢饉と疫病を送って、イスラエルの地から滅ぼし尽くす、と仰せられました。(エレミヤ24:8ー10)

 バビロン捕囚は、神の御心だったからです。神から心が離れ、神を恐れないユダヤ人の不義を取り除くために、神が許されたことなのです。

 

 イスラエルの神は、イスラエルの地からバビロンに送ったユダの捕囚の民を良いものにする御計画をお持ちでした。

 「わたし(神)は良くするために彼ら(バビロンに捕囚されたユダヤ人たち)に目をかけて、彼らをこの国(ユダヤ民族の先祖の地イスラエル)に帰らせ、彼ら(イスラエルの民)を建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。(バビロン捕囚から帰還するユダの住民たちの心にユダヤ人の神への信仰を置く。)

 また、わたし(イスラエルの神)は彼ら(ユダヤ人たち)に、わたしが主(ユダヤ人の神)であることを知る心を与える。彼ら(ユダヤ人たち)はわたしの民(神に仕える祭司の民)となり、わたしは彼らの神(イスラエルの神)となる。

 彼ら(偶像の神々のバビロンの地で、イスラエルの神こそが生けるまことの神であることを悟り、イスラエルの神に立ち返ったユダヤ人たち)が心を尽くしてわたし(天の神である生けるまことの神)に立ち返るからである。」(エレミヤ24:6,7)

 

 バビロン捕囚は、民を苦しめるためのわざわいではありませんでした。民を苦しめることで、ユダヤ人の思いを覆う偽りの望みを打ち破り、正気に戻してアブラハム、イサク、ヤコブの神に立ち返らせ、彼ら(ユダヤ人たち)のうちに神の契約を思い起こさせて神への信仰を回復するためでした。

 

 バビロン捕囚をわざわいと見て、神が立てられたバビロンに従わなかった者(ユダヤ人)たちは、神の御手にへりくだらない者でした。自分を主として自分で判断し、自分自身で安全を確保する者です。神は、彼らこそがユダヤ民族を悪いものとする者、すなわち、神に従わなくさせる悪い者であるとされます。

 

 神は、バビロン捕囚を通してイスラエルから不信仰と不従順を取り除かれました。そして、その後、神の祭司の国民としたユダヤ人たちに、罪の贖いの神の子羊(神のひとり子イエス・キリスト)を遣わされました。

 

 人は、わざわいを悪いものと決めつけます。しかし、神は、わざわいを通して心が砕かれ心を尽くして神に立ち返る良いもの(神の民)を、ご覧になっておられるのです。

 

 なぜ、神は愛する者に、このようなわざわいを許されるのでしょうか。

 人は災いの中で、神に見捨てられたと思わないでしょうか。神に愛されていないと信仰を投げやってしまうのではないでしょうか。

 

 神は、御自分に属する者を知っておられます。彼らの心を覆っている堅い殻を破り、肉の心を目覚めさせ、彼らに生きるための信仰(永遠のいのちと天の御国の約束を得させる神のひとり子イエス・キリストの御名により、まことの神、創造主に立ち返る信仰)を得させるためなのです。

 

 神の御子イエス・キリストは言われます。 

 「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせる(滅びに向かわせる)なら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのち(永遠のいのち)に入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火(永遠の死)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせる(御救いから引き離す)なら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのち(天の御国)に入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナ(永遠の滅び)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マタイ18:8,9)

 

 神は、御自分に属する者の魂をこの世の滅びから救い、永遠のいのちを得させるために、御救いの信仰(救世主イエス・キリストを心に迎えて天の御国に入る新しい心)を愛する者のうちにかたち造られるのです。