ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神にへりくだる恵み

 

 ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウエルの言葉

 「富は海の水に似ている。

 それを飲めば飲むほど、のどが渇いてくる。」

 

 人間の業(ごう)を言い得ていると思いませんか。

 本当に不思議なことですが、お金持ちになればなるほど、お金を増やすことに執着するようです。お金持ちはたくさん持っているからそれで十分ではないのかと思うのですが、そうではないようです。

 

 お金持ちになってお金によって得られる特権を享受してしまうと、その魅力に取りつかれてしまうのでしょうか。それとも、以前の生活に戻ることに恐れを抱くのでしょうか。

 

 お金で得た財産も、信用も、人脈も、お金がなくなれば失ってしまいます。その時、我に返る人は、今まで求めてきた物は何だったのだろう。私は何を見ていたのだろう。私は、私の前を素通りして行く幻想にしがみついていたのだろうかと虚無感に襲われます。しかし、お金があることが現実だと信じる人は、失ったことを認めません。誰かのせいにして恨んだり、現実逃避して自分の残りの人生を無駄にします。

 

 多くの人間は、顔や姿かたちの美しい人を羨んだり、才能のある人を妬んだり、お金持ちに憧れたりします。そして、多くの人は、彼らのことを祝福された人、恵まれた人と見ないでしょうか。

 人間は目に見えるところで自分や人を判断して、一喜一憂します。他人との比較に、自分の立っている場所を認識する物差しがあるようです。

 自分よりも才能のない人に横柄になり才能のある人に劣等意識を持ちます。自分よりもお金のない人に優越感を感じ、お金のある人の前で小さくなります。

 そして、自分より多く持つ人のことを、祝福された人と感じるのかも知れません。

 

 人間は得ることが祝福、失うことはわざわいと思います。

 しかし、人間のうわべではなく、心を見られる神はそうではありません。持つ者は祝福された人ばかりではありません。また、失う者が神に祝福された人である場合もあります。

 

 神が目を留められるのは、姿かたちの美しい者でもなく、金持ちでもなく、才能のある者でもありません。望みが砕れて悲しむ者であり、自分の咎に悩む者であり、自分の欠けに失意を持つ者であり、自分の犯した罪に嘆く者です。自分の弱さを知り、救いを求める者です。

 神は、他人から捨てられた者を憐れまれます。愛を求める者、赦しを求める者に御目を留められます。そして、この世に失望する者たちを招かれます。

 

 この世は不平等社会です。お金を持つ者が権力を持ち、お金のない者たちをわずかなお金(賃金)で自分の思いのまま使役することが暗黙の了解とされています。弱い者を守る社会は発展しない(経済的豊かさが得られない)からです。

 

 経済の発展は、力のない者、弱い者が生きづらい世を構築しました。そして、声を上げることのできない動物や植物を虐げ、被造物を破壊して来ました。創造主なる神が造られた被造物は、うめいています。

 

 何も持っていない小さい者や弱い者は、生きているだけで精一杯です。彼らの心は、人間が構築した社会により頼むことができません。救ってくれないことを知っているからです。

 

 人々は、彼らを見て、社会の競争に敗れた敗者、あるいは、役に立たない不要な者、生きているのに死んだも同然の外れ者と思い、自分の人生に関わりのない彼らを気に留めないかも知れません。人には、それぞれ負うべき重荷があります。他人の重荷を負う余裕はありません。

 

 他の人より裕福になろうとして、ユダヤ人を苦しめるローマ帝国の手下となって、ユダヤ人たちから不当な税を徴収する取税人は、ユダヤ人たちから嫌われ憎まれていました。

 生活がままならず、生きて行くために身を汚し、遊女となった女たちもいました。ある女は、家族を養うために遊女となったのでしょう。彼女たちは、聖なるイスラエルを汚す罪深い女としてユダヤ人たちから嫌われていました。

 

 取税人は孤独でした。遊女は、自分の生涯をあきらめていました。しかし、彼らの心は渇き、彼らの魂は救いを求めていました。

 律法の下にいるユダヤ人たちは、自分たちは神に認められる正しいユダヤ人(選民)であると自負していました。そして、律法を守らない税人や遊女たちを、神に捨てられた罪深いユダヤ人と信じて蔑みました。

 

 「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者(ユダヤ人)たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

 『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のよう(な罪人)ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(と言って、金持ちは自分の義を言い表わした。)

 ところが、取税人は(宮から)遠く離れて立ち、目を天にむけてようともせず(罪人の自分は聖なる神にふさわしくないと、神を恐れて)自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私を憐れんでください。」(取税人は自分の罪を言い表わした。)

 あなたがた(ユダヤ人)に言うが、この人(自分の罪を言い表わした取税人)が、(神に罪が赦され神に)義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。

 なぜなら、だれでも自分を高くする者(自分の義に立ち自分には罪がないと考えて神にへりくだらない者)は(神に義とされず)低くされ(神に退けられ)、自分を低くする者(自分の言い分を持たず神を恐れ、神にへりくだって、神の憐れみにすがる者)は(神の赦しを受けて、神によって義とされ)高くされるからです。』」(ルカ18:9-14)

 

 神の律法を守り、十分の一の献金をささげることに忠実なパリサイ人は、神に義とされませんでした。

 不当な税を取り立てて私腹を肥やす取税人が、神に義とされたとは不可解なことではありませんか。

 

 預言者サムエルは、(エッサイの子)エリアブを見て、「確かに、主の前で(王の)油を注がれる者だ。」と思いました。

 「しかし主はサムエルに仰せられた。

 『彼(エリアブ)の容貌や、背の高さを見てはならない。わたし(神である主)は彼(背が高く容貌の美しいエリアブ)を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」(サムエル16:7)

 

 そして、最後に末の弟のダビデが連れて来られました。その子ダビデは血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派でした。

 すると、主はサムエルに仰せられました。「さあ、この者(ダビデ)に油を注げ。この者がそれ(イスラエルの王)だ。」(サムエル第一16:12)

 エッサイの家族の中で、最も小さく、まだ少年だったダビデが、神に選ばれました。

 

 人は、目に見える容貌や年齢や背の高さや人望で、神にふさわしい者かどうかを判断しますが、神は、その人の心のうちにあるものをご覧になって、ふさわしい者かどうかを判断される、というのです。

 

 律法を守り正しく生きているパリサイ人の心はどこにあったでしょうか。

 神は、取税人の心をご覧になられました。罪深い取税人の心は神の御前に置かれ、自分の罪を言い表わしたのです。

 

 イエスの弟子のヨハネは言います。

 「もし、罪はないと言うなら、わたしたちは自分を欺いており、真理はわたしたちのうちにありません。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(ヨハネ第一1:8-10)

 

 私たちが罪人であるから、罪人の私たちを救うために、神は神の子羊イエスを遣わして十字架で贖いの血を流されました。

 罪を犯していないと言うなら、私たちは、十字架のわざを偽りとし神を偽り者とします。そして、神の御子イエスの贖いの血による御救いを否定する者です。

 

 神を認める者(神がおられることを信じる者)は、自分の罪も認め罪を言い表わします。神が罪を赦してくださる真実で正しい方であることを信じているからです。

 神を恐れ神を神として信じ、神にへりくだり神の憐れみにすがる心は、神に受け入れられます。罪人だから受け入れられるのではありません。自分が聖なる神(神の御国)にふさわしくない罪人であることを認めて神に言い表わし、自分を神に明け渡しゆだねるとき、神は、その者を受け入れてくださいます。

 

 「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。(人間が神よりも知恵があるはずもなく、力強いはずもありません。)神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5:5-7)