イエスは地上最後の過越しの食事を弟子たちとともにされたとき、弟子たちに裏切る者のことを言われました。
「みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
『まことに、あなたがた(イエスの十二弟子)に告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたし(イエス)を裏切ります。』
弟子たちは悲しくなって、『まさか私ではないでしょう。』とかわるがわるイエスに言いだした。
イエスは言われた。
『この十二人の中のひとりで、わたし(イエス)といっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。
確かに、人の子(主キリスト)は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子(神の御子キリスト)を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』」(マルコ14:18-21)
別の個所ではこのように書かれています。
「イエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼(イスカリオテ・ユダ)がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼(ユダ)に入った。そこで、イエスは彼に言われた。
『あなたのしようとしていることを、今すぐしなさい。』
席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼(ユダ)に、『祭りのために入用の物を買え。』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」(ヨハネ26-30)
「イスカリオテ・ユダは盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいた。」とヨハネ12:6にあります。
イエスは、人の子(キリスト)を裏切るイスカリオテ・ユダのことを、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と言われました。
なんて厳しいことばなのでしょうか。
神の御子イエスに敵対するパリサイ人や律法学者たちに、「まむしのすえども。」と𠮟りつけられ、ユダヤ人たちにはたとえで話し、十二弟子たちには神のことばを真っすぐに語っておられた主イエスが、三年半の間行動をともにしてきた十二弟子のひとりに言うことばでしょうか。
ところが、このことばは、主イエスの憐れみに満ちたおことばであったことを聞く機会がありました。人の子(神の御子イエス)を裏切る者の罪は何よりも重いのです。このような重い罪に定められ、永遠に重い罪を負って火の池の苦しみを受けるくらいならば、生まれてこなかった方がよかったと、ユダの魂のために嘆かれたのです。
実は、魂は世の初めから造られていたというようなことばが聖書のどこかに書かれています。
七を七十倍赦しなさいと言われる神の御子のことばを踏まえて魂を捉えると、いにしえから人々が生まれ変わりを信じてきたことに納得がいきます。
生まれ変わりとは、一つの魂が何度も、別の人間になって生まれているということになります。神は、一つの魂の救いのために、チャンスを与えておられると考えることができます。
イスカリオテ・ユダも以前は罪あるまま世を去った人だったのでしょう。だから、(やり直して救われるために)生まれ変わる機会を得たのです。しかし、死刑に値するような罪人であったのかもしれません。生まれ変わって更生する見込みは薄い魂だったのでしょう。しかし、その魂はもう一度人生をやり直すことを願い、イスカリオテ・ユダとして、この世に再び、生を得たと考えます。
自分の境遇は、実は自分自身の魂の遍歴の結果であると言えます。以前の系図ではなく、最終的な系図がその魂の評価となるでしょう。
そして、世の終わりの時代の今は、生まれ変わりの最終段階の時です。千年王国で生まれ変わることはなく、この世で最終評価を受ける時なのです。魂は、現在の生き方で、最後の裁きに立つこととなります。もはや、生まれ変わりを望むことはできないのです。
生まれ変わって現在があるとしても、以前の記憶はありません。記憶があるからと言って、それがどうなのでしょう。
現在、地球上の人間として生を受けているならば、現在の生き方、有り様が裁きの最終評価なのです。
過去が良くても、現在人間として生きているならば、不完全な(完成されていない)魂だからなのです。まだ、魂は救いを得ていないのです。過去の功績により恵まれた環境に置かれていても、この世を楽しんで終わるだけならば、過去の良い行ないは台無しになります。神が用意された救いを受けることなく、滅ぶこととなります。
過去が悪くても、罪を悔い改め、正しい道を歩もうと決め、神を求めるならば、神の御子キリストが出会ってくださることでしょう。神は、悔い改めた魂を義とされ、過去のすべての罪が赦されます。
過去の魂の経験のすべてが、現在の私自身をつくっているのです。そして、救われるのも、救われないのも、今の私(自分)次第だということです。
日本人に降ろされた神示の『よひとやむみな』の因縁のある人々の項目には、このように書かれています。
「いくら金を積んで神の御用をさせてくれと申しても、いくら学や智があるから、お役をさせてくれと申しても、因縁のある人々、御用をする人々は決まっておる。因縁のある人々にしかできんことじゃ。
因縁のある人は、どんなに苦しいお役でも心が躍るものじゃ。心が躍るから辛くはない。それが因縁のある印よ。魂職というものじゃ。
因縁がなければ、何かがあると理屈をつけてやめてしまう。因縁がなければ、自分の思うようにしようとし無理を言い出す。そのような人間に使う時間はない。」
魂の過去の経験が今の自分をつくり、現在の自分が、私という魂の最終的な評価を得ることになります。過去の自分のせいにはできません。系図のせいにはできません。境遇のせいにはできません。環境のせいにはできません。現在の私という魂の在り方が、すべての評価なのです。良い評価を受けるかどうかは、今の私にかかっています。魂の値打ちを決めるのは、今の私です。魂が救われるのかどうかは、私自身の責任なのです。私の魂の値打ちは私の生き方で評価されます。
この地上に生きているならば、まだ、救いのチャンスがあるのです。
人間として生まれて来たのは、神に立ち返り、魂に安らぎを受けるためなのです。私たちは、今、悔い改めることができます。また、神が用意された贖いの子羊の血を仰ぎ、罪の赦しを受けることができます。
神の御前にひれ伏し、自分の魂を神にささげることができます。神の御子イエスを信じ、キリストの御霊を受けることができます。神に聞き従い、神の子どもに造り変えていただくことができます。私たちはまだ、魂の永遠の安息を得るチャンスが残されているのです。
神の御子イエスは私たちの主です。
「主(神)は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたし(御子)を得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初の塵も造られなかったときに。
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これ(忠信な愛される者)を組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴言22-31)
やまとの身魂を持つ人々、神の御国のために仕え励みましょう。今は、生かす御霊による新しい創造の完成の時です。ひとつひとつの魂が、神の御前に出るために整えられる時です。
やまとの身魂に生まれて来たことを神に感謝しましょう。それは、過去の功績によるでしょう。しかし、それに安んじてはいけません。まだ、完成されていないので、今、生を受けているのですから。
神を信じ、御子イエスを信じ、御霊によってきよめられ、魂が新しい創造(神の子羊イエスの贖いの血を受け、神の御霊によって生かされる神の子どもとされる)によって完成されるように信仰によって歩みましょう。
神の御霊によって新しくされた魂は、光であって、神にへりくだり神をほめたたえることを喜びとし、神とひとつ心の平安と愛と信仰に満ちた永遠のいのちです。
私たちの希望は、神に罪を言い表わし悔い改めるならば、罪が赦されるということ。また、神の子羊イエス(神の御子)を救い主として信じ従うならば、キリストの御霊を受けて、いのちの道を歩み、天の御国に導かれて、永遠の安息が約束されているということです。