ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イスカリオテ・ユダ

 

 イスカリオテのユダは、イエスを裏切った弟子です。十二使徒のうちのひとりです。十二人の使徒のうちに、神の御子イエスを裏切る悪魔の子がいたのです。

 

 「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

 こうして、イエスは十二弟子を任命された。」(マルコ3:13-16)とあります。

 

 マタイ10:1-4には、このように書かれています。

 「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」

 

 イエスが悪霊を追い出す権威をお授けになった使徒の中に、悪魔の子がいたのです。イエスは、この十二使徒を身近に置き、彼らを遣わして、福音(悔い改めよ。天の御国が近づいたから。神の御救いが訪れた。神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じなさい。)を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す神のわざをさせられました。

 

 「わたしについて来なさい。」と招いて、弟子たちを選ばれたのは、父なる神でした。イエスは、父に聞き従ったのです。しかし、十二使徒を選んだのは、イエスだったようです。

 

 イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で、話されました。

 「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人を甦らせます。

 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。

 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者(イエス)だけが、父を見たのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。イエスが神から来られた方であることを信じる者は永遠のいのちを持ちます。

 わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖(ユダヤ民族)は荒野で天から与えられるマナを食べたが、死にました。しかし、これ(イエス)は天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:44-51)

 

 イエスは、御救いのわざである十字架の死といのちについて語られたのです。イエスを神の御子キリストであると信じる人は、イエスの裂かれた肉と流された血とを記念し、パンと葡萄酒の聖餐の恵みにあずかります。

 この聖餐に預かる者は、悔い改めの水のバプテスマを受けた者たちです。イエスは、いのちを与えるパンです。永遠のいのちを得させる霊のパンです。肉体を生かすマナ(先祖が食べた天から降って来たパン)とは違います。彼らは、死にました。

 しかし、イエスの与えるパン、天から下って来た神のひとり子イエスの肉と血は、生かす御霊となって、ひとりひとりのうちに住まわれ、終わりの日に甦らせるのです。

 

 弟子たちのうちの多くの者が、イエスのことばにつまずきました。「これはひどい言葉だ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(ヨハネ6:60)

 

 イエスは霊のことばを語られました。しかし、つまずいた弟子たちは、肉の耳とこの世の知恵で聞いていたのでした。イエスは神のことばを語られました。しかし、弟子たちは人間の思いで聞き、神のことばを憎みました。自分に理解できないイエスのことばに立ち向かったのです。

 

 イエスは言われました。

 「あなたがたのうちには信じない者がいます。それだから、わたしはあなたがたに、『父の御心によるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」(ヨハネ6:65)

 

 すると、弟子たちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。(ヨハネ6:66)とあります。

 

 イエスを信じると告白してキリスト教会に集う人々に、牧師が、「この中に信じない人がいます。神の御心によるのでないかぎり、だれもイエスのところに来ることはできません。」と語ったら、教会内は混乱します。不穏な空気に包まれ、人々の信仰はかき消されるかも知れません。

 

 多くの弟子たちが離れ去る中、十二使徒はイエスのそばにいました。その十二使徒にイエスは言われました。

 「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イエスはイスカリオテ・ユダのことを言われたのでした。このユダは十二弟子のひとりでしたが、イエスをイエスの命を狙う者たちに売ろうとしていたのです。

 

 イスカリオテ・ユダは、高価な香油をイエスの足に塗る女を非難しました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 しかし、イスカリオテ・ユダがこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。(ヨハネ12:6)と聖書にあります。

 

 イスカリオテ・ユダは、イエス一行の財布を預かっている人でした。それは、一行のお金であって、イスカリオテ・ユダ個人のものではありません。しかし、イスカリオテ・ユダは、そのお金に手をつけ、盗んでいたのです。

 

 イエスを祭司らに銀貨30枚で引き渡したイスカリオテ・ユダは、常日頃からイエス一行のお金を盗む者だったのです。イスカリオテ・ユダは、平気で律法を犯す者でした。しかし、他の弟子たちはだれもそのことに気づいていませんでした。

 

 イエスが選んだ十二弟子のひとりは、悪魔の子でした。神は、試みの子として置かれました。イスカリオテ・ユダは、イエスを裏切る者として、神に選ばれた滅びの子です。

 

 イエスは、毒麦のたとえを話されました。

 「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30)

 

 時期になったら、毒麦は毒麦の働きをします。悪魔の子は悪魔の子の働きをします。神は、神の子らを教会から出さないために、あえて、悪魔の子も置いたままにします。神の子らは、悪魔の子の仕業を見て恐れ、ますますイエスを求め、神を慕うことでしょう。

 

 イスカリオテ・ユダは、初めから仲間ではなかったのです。

 

 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。(マタイ5:45)

 この慈しみ深い天の父は、悪魔の子をも、御自分の家(教会)で神の子らの中にあって養われます。

 

 天の父に忠実であられた神の御子、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を十二弟子に残るところなく示されました。(ヨハネ13:1)

 悪魔の子イスカリオテ・ユダを含む十二人に、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭かれたのでした。

 

 イエスは、悪魔の子に焦点を置くのではなく、ご自分の愛された弟子たちに愛を注ぎ続けられました。

 それで、時期になって、イスカリオテ・ユダがイエスを殺す者らを引き連れて来たときも、彼ら(十一人の使徒)はイエスの側にいました。イエスが祭司たちに捕らえられ、ユダヤの裁判にかけられる囚人となっても、つまずきませんでした。

 

 イエスのことばは、十一人のうちに根づいていたのです。イエスのことばと愛が、彼らの信仰を育てていたのです。十一人の使徒の思いはイエスとともにあり、彼らの信仰の灯は悪魔の子(イスカリオテ・ユダの裏切り)によって消されることはありませんでした。