ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

実を結ぶ忠実なしもべと、不信仰なしもべ

 

 イエスは、天の御国を、自分の財産を預け、旅に出て行く主人にたとえて言われました。

 

 「彼(主人)は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、ニタラント預かった者も、さらにニタラントもうけた。

 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。」(マタイ25:15-19)

 

 主人はイエス・キリストご自身であり、タラントはそれぞれに分け与えられた御霊の賜物のことでしょう。

 イエス・キリストは、聖霊のバプテスマを授け、御霊を受けた人おのおのにその能力に応じて、御霊の賜物を与えておられます。

 

 人は神の御前で平等のはずなのに、それぞれその能力に応じてとはどういうことでしょう。神は、五タラントの人を優秀な者とし、一タラントの人を低く見ておられるのでしょうか。

 いいえ、神の平等は、すべての人が無理なく、喜びをもって神に仕えるように、公平なのです。その人の体力に応じて、荷の重さを変えられます。

 力ある者が軽い荷物であれば、余裕から心に隙ができ、悪魔がつけ入りやすくなります。力の弱い者が力ある者と同じ荷を負うならば、つぶれてしまいます。

 たとえば、りんごをきれいに袋詰めして主人に渡すことを想像してみましょう。十個のりんごが入る袋に1~2個のりんごしか入っていなければ、りんご以外の物(世の物)をも入れてしまうかも知れません。また、1~2個しか入らない袋にもっともっととりんごを入れようとすれば、袋は破れて一個のりんごすら入れられなくなってしまいます。

 

 人を造られた神は、それぞれの器の分量を御存じなのです。分量が大きいから良い器、分量が小さいから価値の低い器ということではありません。それぞれに用途があるのです。神は、御心のままに、それぞれを造っておられます。

 そして、その器の分量にしたがって、賜物を分け与えられます。人は平等というと、どの人も同じだけ与えられることだと思いますが、神の平等は、その人が幸福感を持って仕えることのできる、それぞれに見合ったものを、分け与えられることのようです。

 音楽の好きな人に音楽の賜物を、絵の好きな人にはそれに関連する賜物をというように、神は、本当に、ひとりひとりをよくご存じです。

 

 主人が帰って来て、清算されました。

 五タラント預かった者は、さらに五タラントもうけて十タラントとなりました。二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけて四タラントになりました。

 ところが、一タラント預かっていた者は言いました。

 「ご主人さま。あなたは、まかない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

 私は怖くなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」(マタイ25:24,25)

 

 一タラント預かった者は、イエス・キリストを信じて、神の国のために奉仕する御霊を受け取っていました。

 そのしもべは、イエスを信じて罪が赦されたという信仰はあるのですが、イエスをこの世の主人と同じように考えていました。主人は罪を赦し解放してやったのだからと言って、きっと主人(イエス・キリスト)のために、身を粉にして仕えることを要求されるだろう。私の人生は終わった。世の愉しみを捨てて神の奴隷となるとは。私には、もはや楽しみはない。世捨て人のように、無味乾燥な日陰の人生を送らねばならないのだ。

 

 彼にとって、御霊の賜物を用いることは恐ろしいことでした。御霊の賜物を使えば、自分の時間も、喜びも楽しみも奪われてしまいます。世の愉しみの華やかさが心を引きます。神の働きなんて、世の人々にからかわれるし、なんてつまらないことだろう。

 彼は、イエス・キリストは信じたけれども、イエスの愛、神の愛を知らない者でした。御霊によって祈ることも、御霊の声を聞くこともありません。声など聞いたら、何を命じられるのか、わかりません。きっと、興味の持てない嫌なことを強要して来るに違いありません。離れていよう。賜物は私のものではなく、主人のものだから、無傷の状態で保管しておき、そのまま返そう。

 

 五タラント預かった者も、二タラント預かった者も、御霊の賜物を用いると、御霊の用意された火のバプテスマをくぐりました。

 御霊は金粕を除いて、神の働きに間に合う器にきよめられるのです。御霊は、その人の行きたくない所へ導き、したくないことをさせ、屈辱の体験や、別れの悲しみや、病の痛みや、その人に合った試みをくぐらせます。

 タラント(御霊の賜物)を預かった者は、無我夢中でくぐり抜けます。試みを受ける以前よりも、キリストに堅く結びついていることに気づきます。信仰が強められたのです。

 

 この試みの中で、神に従うことをあきらめる人も出て来ます。また、神が恐ろしい方だと感じる人も出て来ます。信仰をなくす人もいるでしょう。

 

 タラントが多いほど、悪魔の攻撃も大きいのです。御霊は、悪魔の攻撃に耐えうる信仰者に育てられます。

 神の国の働きは、霊の戦いなのです。この世の君である悪魔は、自分の領土の奴隷(この世の人々)を、神の御子イエス・キリストの所有とされることを阻止するために、抵抗するのです。

 御霊を受けた人は、この霊の戦いの中に加わるのです。神と悪魔との闘いです。御霊は神御自身であり、キリストの御思いを知らせるキリストの御霊です。悪魔は、神の御子キリストを憎む者であり、キリストに敵対する者です。

 御霊を持たないキリスト者は、悪魔にとって脅威ではありません。しかし、御霊を持つ聖霊の器は、悪魔と悪霊どもの標的なのです。

 

 御霊に聞き従い、賜物を用いる者とともに、御霊は働かれます。そして、御使いたちが仕えます。神の国は、悪魔から取り戻して完成するものだからです。

 

 地の中に賜物を隠していた(賜物を用いず、生ける神を体験していない)一タラントを預かった者について、イエスは言われます。

 

 「主人は彼(一タラント預かった者)に答えて言った。

 『悪い怠け者のしもべだ。私(イエス・キリスト)が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。(神は奪う者、情け知らずの者であると言うのか。)

 だったら、おまえはその私の金(御霊も賜物)を銀行に預けておくべきだった。そうすれば私が帰ってきたときに、利息がついて返してもらえたのだ。(賜物の働きはほかの人にゆだね、自分は祈りをもってその働きを支えるべきだった。)

 だから、そのタラント(一タラント)を彼から取り上げて、それを十タラント持っている(神に忠実な)者にやりなさい。』

 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

 役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:26-30)

 

 タラント(神に与えられた御霊の賜物)を用いないことは、宝の持ち腐れであり、主人(イエス・キリスト)の御心を踏みにじる行為です。キリストの敵である悪魔の物笑いの種になっています。

 そのような人は、怠け者のしもべであり、役に立たないしもべです。キリストの栄光の輝きを覆い隠し闇と交わる者です。

 

 イエス・キリストが天から帰って来られて清算の時に、これらの役に立たないしもべは、外の暗闇に追い出されます。

 彼らは、神の国に入ることはできません。神の子どもたちが集められると、彼らは、都の外で、泣いて歯ぎしりするのです。