ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

罪を赦す権威と罪を赦されるイエス

 

 「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼ら(パリサイ人たち)は、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主(神)の御力をもって、病気を直しておられた。

 男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼(中風の人)の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。

 彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。

 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『(神になりすまし)神を汚すことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』

 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼ら(パリサイ人たち)に言われた。

 『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて歩け。」と言うのと、どちらがやさしいか。

 人の子(人の姿で人として来られた神の御子イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。

 すると彼(中風の人)は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

 (それを見ていた)人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」(ルカ5:187-26)

 

 イエス・キリストは、人の罪を赦す権威を持つ神のひとり子です。

 イエスがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、イエスがだれかの罪をそのまま残すなら、その人の罪はそのまま残ります。そして、残されている罪は、神の御前で裁かれなければなりません。

 

 イエスは、ユダヤ人たちの間を巡り、教え、病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出されました。

 

 病も、死も、悪霊とともにあることも、人の本来の姿ではありません。悪魔が人に罪を犯させたので、罪を犯した人はその罪の報酬として、それらのもの(病や死や悪霊)を受けてしまったのです。

 人は生まれながらの罪人なのです。罪人でなければ、生まれて来る必要はありません。罪がないのであれば、天におり、地上に生れ落ちることはなかったのです。

 

 イエスは言われました。

 「友よ。(人よ。)あなたの罪は赦されました。」

 イエスは、罪を赦す権威を持つ神のひとり子です。

 

 しかし、イエスが神の遣わされた主キリスト(救世主イエス・キリスト)であることを信じられない、頑ななパリサイ人たちは憤りました。レビ人でもなく正規の学びもしていないナザレ人(田舎者)のイエスが、祭司のように、罪の赦しを宣言するとは何事なのでしょうか。

 

 天から来られた神のひとり子が、父なる神とともに造られた人に、「あなたの罪は赦されました。」と、ありがたいお言葉を授けになっただけなのです。

 そのおことばを賜った中風の人は、心の荷を下ろしたことでしょう。中風の病の症状以上に、なんで中風病になったのかと思う時、彼の心配ごとは罪の報いなのかと煩悶していたのではないでしょうか。

 神の民であるユダヤ人にとって、神に後ろめたい者であることは、心の晴れないことなのです。

 

 イエスは、中風の人の痛みの源を知っておられたのです。罪が赦されることが、彼にとって、最も必要なことだったのです。神の御前に何も責められるものがないことの心の自由が彼に訪れました。イエスは、中風の人の心の奥深くにある悩みのかせを解き放ってくださったのです。

 イエスはレビ人の祭司ではありません。しかし、イエスのことばには権威がありました。中風の人を縛っていた闇の力は破られました。

 

 イエスは、イエスの権威を悟れない人々のために、中風の人に起きて寝床をたたんで家に帰りなさい、と命じられました。すると、イエスのおことばどおり、寝たきりで体中が痛かった中風の人には、その場で起きて寝床をたたみ、みなの見ている前で、神をあがめながら家に帰ったのです。

 中風の人は、イエスのことば、イエスの力が、神のものであることがわかったので、神をほめたたえました。

 

 イエスは、ご自分のことを「人の子」と呼んでおられました。ご自身は神のひとり子であるのに、人の罪を負うために、神の御姿としてのあり方を捨てて人の子の姿でユダヤ人のところに来られたからです。

 イエスは、神がイスラエルの救いのために造られた「人の子」だったのです。人の罪を負うために、罪の贖いの子羊として造られた人の子です。罪が一つもなく、父なる神が造られたままの完全な姿の人の子です。完全に神に聞き従う唯一の全き「人の子」なのです。

 アダムの子らはみな、罪人です。生まれながらの罪人です。しかし、「人の子」(ナザレのイエス)は、人間の欲求によってではなく、男を知らない処女マリアから産まれた神のひとり子なのです。

 

 人の子(処女から生まれたナザレのイエス)は、地上で罪を赦す権威を持っておられます。なぜならば、神に祭司の油を注がれたキリストだからです。

 天で神に仕えるまことの祭司です。イエスは、罪の贖いのために流された神の子羊イエスの血を携えて、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である天の聖所に入られました。

 

 イエスは、罪を悔い改める人の心を見て、また、主イエス・キリストに助けを求める人の罪を赦されます。

 

 たとい、聖書の詳しい知識を持つパリサイ人や律法学者や祭司たちや権威ある人々がイエスを認めなくても、また、彼らが罪を赦さなくても、イエスが「あなたの罪は赦されました。」と言われるならば、その人の罪は天においても地においても赦されるのです。イエスは、罪を赦す権威を持っておられるキリストだからです。

 神が、その権威をイエスにお与えになりました。イエスを信じる者は、天の神を信じる者です。その人は神に覚えられるのです。

 

 イエスは弟子たちに言われました。

 「聖霊を受けなさい。

 (聖霊を受けた)あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、(キリストの御霊を持つ)あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま(罪として)残ります。」(ヨハネ20:22,23)

 

 イエスは、死から復活して、今は神の御座の右に着座しておられます。そして、私たちのために執り成しておられる、とこしえの祭司です。とこしえの祭司は、地上にいる私たちに、聖霊によって、罪を赦す権威をお与えくださいました。

 

 聖霊を受けた者は、キリストの御霊を受けたのです。

 イエスが神の権威を持って地上を歩まれたように、イエスを主キリストとし、キリストの御霊を宿す私たちは、イエスの持っておられたと同じ権威を持つことになります。

 

 とこしえの祭司キリスト・イエスは、イエスの弟子たちに、もうひとりの助け主(聖霊)によって、地上に始められたイエスの働きを完成することを願っておられます。

 キリストの御霊を受けなければ、その働きをすることはできません。病を直すのも悪霊を追い出すのも、聖霊の力なのです。

 

 聖霊を受けて、神の武具を身に着けた弟子たちに、イエスは言われます。

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(イエス・キリストを)信じてバプテスマを受ける者は、救われます。(罪が赦されて、永遠のいのちを得ます。)しかし、(神の御子イエス・キリストの福音を)信じない者は罪に定められます。

 (イエスを信じ御霊を)信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名(イエス・キリストの御名)によって悪霊を追い出し、(御霊が与えられる)新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:15-18)