ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私たちは光を見た

 

 「苦しみのあった所に、闇はなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:1,2)

 

 イエスは、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられました。すると、天が開け、神の御霊(聖霊)が鳩のように下って、イエスの上に来られました。

 

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」(マタイ4:1,2)

 御霊によって新しく生まれ、新しい創造を受ける新しい人(御霊の子どもたち)の初めとして、イエスは、水から上がられると御霊を受け、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野(何もないところ)へ上って行かれ、四十日四十夜断食されました。

 

 御霊は悪魔の試み(火のバプテスマ)を授けられました。悪魔の試みに勝利されると、イエスは、神の働きに入られました。

 

 神もヨハネも信じないヘロデ王に、バプテスマのヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤ地方に立ち退かれました。

 イエスの家のあるナザレの町を去って、カペナウムに来て住まわれました。そこは、ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町です。同胞のユダヤ人たちから蔑まれる、異邦人も住むガリラヤです。律法に厳格なユダヤ人たちは、ガリラヤ地方のユダヤ人たちを半分異邦人のように思っていました。正しいユダヤ人と見ていませんでした。

 

 同胞から嫌われる卑しいユダヤ人。彼らは全きユダヤ人ではありません。異邦人によって汚れている者たちのように考えられていました。

 ユダヤ人たちに侮られ、祭司長やパリサイ人たちの鼻つまみ者です。イスラエルの神の栄光の光が届かない日陰の人々です。

 彼らの信仰は蔑まれ、暗闇の中にすわっていたガリラヤ人。ほかの地方のユダヤ人たちの前に出るのがはばかられる小さい者たちです。

 

 しかし、神から遣わされたメシア(神の御子イエス・キリスト)は、小さい者たちの異邦人のガリラヤで、宣教を開始されました。

 ユダヤ人たちから目くばせされるような惨めなガリラヤの人たちの所に来て、聖なる神の御子イエスは、ガリラヤ人たちに向かって、神のことばを語られました。

 

 カペナウムに来て住まわれ、この時から、イエスは宣教を開始して、言われました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)

 

 学識高い祭司長やパリサイ人たちに真理を明らかにされたのではありません。彼らには、隠されました。

 神の御子イエスは、御父に聞き従い、無学なガリラヤの漁師たちを招かれました。御父は、知識ではなく、心をご覧になっておられました。理屈を言う者ではなく、イエスのことばを純真に受け入れるペテロたちを、御子のために、弟子としてお選びになられました。

 

 イエスの奇跡やしるしを、純粋に驚き、神をたたえる純真な者たちです。神の選びは正しかったです。のちに彼らは、命がけで、イエスに聞き従う御霊の器となりました。

 

 無学で無骨な弟子たちですが、イエスへの熱い思いがありました。自分たちの知恵に頼りません。イエスに言われたことを信じて従うのです。

 

 ユダヤ人たちに見限られて、真理の教えを与えられることなく、闇の中を歩んでいた日陰のガリラヤの人々が、神の真理の光(神の御子)を見ました。

 死の陰の地(死んだも同然に見られ、救いの外に置かれていたガリラヤ)に住んでいた者たちの上に、神がイスラエルに遣わすと約束しておられた主キリスト(神のひとり子)が遣わされ、真理のことばを、また、神のわざを惜しげもなく、現わされました。神の光は、彼らの上に照ったのでした。

 

 神の御子イエスがお生まれになった時、神は、その良き知らせを、羊飼いたちに知らされました。ユダヤ人たちから卑しい職業とされた羊飼いたちの所に、神の御使いは遣わされました。

 

 「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

 御使いたちは彼ら(羊飼いたち)に言った。

 『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 きょうダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがた(イスラエル)のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためにしるしです。』

 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。

 『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ2:8-14)

 

 神は、神に仕える祭司たちが受ける栄光を、羊飼いたちに現わされました。荒野で、モーセひとりが神の栄光を面と向かって見ました。モーセもかつて、荒野で羊飼いでした。神は、羊飼いたちに、神の子羊の栄光を現わされました。

 

 霊的に言えば、祭司長や律法学者やパリサイ人たちが民を導く指導者(羊飼い)であるはずなのに、神の子羊イエスは、彼らのところに来られたのではありません。羊のために、いのちを捨てるまことの羊飼いであられるイエス・キリストは、羊飼いたちに現われ、救い主の訪れを告げられたのです。

 

 無学な羊飼い、しかし、羊を野宿で夜番しながら羊の群れを見守る、まかされた任務に忠実な羊飼いたちのところに来て、「きょう、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と告げたのです。

 

 主キリストの訪れは、ユダヤ人全体の望みでした。だれもが待ち望んでいたのです。くすしくも喜ばしい栄えあるニュースを知らされたのは、民の長老や役人ではなく、純朴な羊飼いたちだったのです。しかも、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われ、神を賛美するのを聞きました。

 

 神の子羊イエス・キリストは、彼らのために、お生まれになりました。救い主キリストは、彼らを救うために、お生まれになられたのです。

 

 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 家畜を飼っている卑しい羊飼いたちが、神の御心にかなう人々だったのです。

 

 ダビデも羊飼いでした。ダビデは言います。「獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺します。私は、獅子でも、熊でも打ち殺しました。」(サムエル第一17:34-36)

 

 神が、ダビデを選び、羊の群れから取り、イスラエルの王とされました。

 神は、幼子のように純真な心の者たちを、愛するひとり子に与えられます。

 神は、愛する御子のために、イエス・キリストのことばを聞いて幼子のように信じて信頼し、イエスと交わり御子イエスを愛し、イエスの栄光を見て天を崇め、素直にキリストをたたえる者を選んでおられるのです。

 

 「われらの神(イスラエルの神)の深い憐れみによる。その憐れみにより、日の出がいと高き所からわれら(イスラエル)を照らし、われらの足を平和の道に導く。」(ルカ1:78,79)

 

 自分が光の中にいる正しい者だと思っている人たちは、光が現われても、弟子たちのように、純粋な喜びを持ちません。いろいろ詮索します。自分の光を基準にして、イエスを調べ、自分たちでイエスを評価します。光を持っていると思っている彼らの方が、神の御子イエス(真理)よりも偉くなっているのです。

 

 御救いは神が万民のために備えられたものです。神は、闇の中を歩んでいた民、希望のない人々や、信仰が蔑まれ相手にされない人々や、愛されない人々に、真理の光を照らされるのです。