ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

まことの羊飼いのもとへ導く牧者

 

 「次のような主のことばが私(エゼキエル)にあった。

 『人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

 あなたがた(牧者たち)は脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

 弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを包まず、迷う出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼ら(羊たち)を支配した。

 彼ら(羊たち)は牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。

 わたし(神)の羊はすべての山々やすべての高い山をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

 わたし(神)は生きている。―神である主の御告げ。―わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」(エゼキエル34:1-8)

 

 神の子羊イエス・キリストがイスラエルに来られた時代は、まさにこのようでした。牧者たちが神とともにいないので、羊たちは人間のことばで教えられ、傷つき迷っていました。

 再び、キリストが来られる終わりの時もこのような状態なのでしょう。

 ユダヤ教だけではありません。真理を教えると言っている宗教すべてに言えることです。また、国の指導者にも言えることです。牧者たちは自分たちを養うために羊をえじきとしているのです。

 

 「それゆえ、牧者らよ、主のことばを聞け。

 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うのをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。(二度と自分自身を養えなくなる。)またわたしの羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。(彼らのえじきにさせない。)

 主なる神はこう仰せられる。見よ。わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、羊を捜し出す。

 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわたしの羊を捜し出し、雲と暗闇の日に散ったすべての所から救う。わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国(まことの羊飼いである神の御子キリスト・イエスの治められるとこしえのイスラエル王国)に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所(敵のいない平和の地)で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。

 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。わたしは、失せたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものとは、わたしがこれを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34:9-16)

 

 パウロもこの有様を見ています。

 「私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。

 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中で本当の信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるという始末です。

 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」(コリント第一11:17-22)

 

 主イエスは、私たちの記念として命じられました。主イエスは、身柄を渡される夜(十字架の前日)、パンを取り、感謝を献げて後、それを裂き、こう言われました。

 「これ(聖餐のパン)はあなたがた(贖われた者たち)のための、わたしのからだ(キリストのからだ)です。わたし(神の子羊イエス・キリスト)を覚えて、これを行ないなさい。」(コリント第一11:24)

 夕食の後、杯も同じようにして言われました。

 「この杯(ぶどう酒)は、わたしの(贖いの)血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたし(十字架で罪の贖いを成し遂げられたイエス・キリスト)を覚えて、これを行ないなさい。」(コリント第一11:25)

 

 主イエスは、弟子やキリストを信じる者たちに、パンと葡萄酒の聖餐を行なうことを命じられました。

 ですから、キリスト者たちは、聖餐のパンを食べ、ぶどう酒を飲むたびに、主が来られるまで、主の死(罪を取り除く神の子羊イエスの血の贖い)を告げ知らせるのです。

 

 パウロは忠告します。

 「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者(聖餐にあずかる者)があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだ(聖餐はただのパンやぶどう酒ではなく、聖餐のパンはキリストのからだであり、聖餐のぶどう酒はキリストの血であり、聖別されたものなのです。)をわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。

 しかし、もし私たちが自分をさばくなら(自分の罪を認めて神に悔い改めるなら)、さばかれることはありません。

 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。」(コリント第一11:27-34)

 

 パウロは、まことの羊飼いのもとに導く牧者(御霊)に聞き従う、羊の群れの監督者です。使徒たちはみなそうです。

 

 神は仰せられました。

 「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。」(エゼキエル34:15)

 

 神は、神御自身が、羊を飼うと仰せられました。神が御自分で失われた羊を捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけられます。

 神御自身が国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地(とこしえのイスラエル王国)に連れて行き、神の良い牧場で彼らを飼い、神の羊を憩わせられるのです。

 

 神は、ひとり子に肉体を造られ、神の子羊(イエス・キリスト)としてイスラエルに遣わされました。

 イエスは言われます。

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのもの(神の羊)を知っています。また、わたしのもの(神の羊)は、わたし(まことの羊飼い)を知っています。

 それは、父がわたし(神の子羊イエス)を知っておられ、わたし(神の御子イエス)が父を知っているのと同様です。また、わたし(イエス・キリスト)は(神の)羊のためにわたしのいのちを捨てます。

 わたしにはまた、この囲い(イスラエル)に属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声(キリストの御霊の声)に聞き従い、一つの群れ(御霊の教会、すなわちとこしえのイスラエル)、ひとりの牧者(イエス・キリストはイスラエルの王)となるのです。」(ヨハネ10:11,14-16)

 

 私たちには、まことの羊飼いがおられます。神の御子イエス・キリストです。まことの羊飼いを私たちに遣わされた神は、もうひとりの助け主(イエスは主ですとの告白をさせる御霊)を遣わされました。キリストが授けられる真理の御霊です。

 真理の御霊が神の羊を導かれます。真理の御霊は、キリストの御霊だからです。御霊は、まことの羊飼い(イエス・キリスト)のもとへ導く、神が遣わされた牧者です。

 そして、地上の牧者たちは、御霊の器を管理する監督者なのです。監督者たちもまた、同じひとりの牧者(御霊)によって導かれている神の羊であり、聖霊の器です。

 御霊は、御霊の器たちをまことの羊飼い(イエスのことば)のもとへ導く、私たちの真の牧者です。