ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

弱さに注がれる恵み

 

 「からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。」(コリント第一12:14)

 

 聖書では、キリスト信者の集合体を「キリストのからだ」と呼んでいます。

 ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、神の御子イエス・キリストを信じる人々は、一つのキリストの御霊によってバプテスマを受け、一つの御霊を飲んで(御霊によって)新しく生まれ、一つの新しいからだ、キリストのからだとなるのです。

 

 神は御心にしたがって、(キリストの)からだの中にそれぞれの器官を備えてくださいました。器官は多くありますが、からだは一つなのです。もし、全部(全体)がただ一つの器官(の働き)であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

 目には目の働きがあり、足には足の働きがあります。すべての器官は、頭(神の御子イエス・キリスト)に従うのです。

 

 かっこうの良い器官も、見栄えのしない器官も、丈夫な器官も、弱い器官も、すべての器官がキリストのからだです。神は、劣ったところをことさらに尊んで、キリストのからだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うように、キリストのからだを調和させられます。

 

 「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません。

 それどころか、からだの中で比較的に弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見栄えのしない器官は、ことさらに良いかっこう(機能)になりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。」(コリント第一12:21-24)

 

 からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものである、というのは、神の愛です。

 

 人は、目に見えるところで判断しますが、神は、人の目には見えない心と思いで判断されます。人の評価しないものが、キリストのからだの中で、かえってなくてはならないものなのです。

 

 寝たきりの病人や、多くの機能に不自由を感じる年老いた人や、知識のない子どもたちは、キリストの働きの戦力外とみなされます。

 人々は、彼らの心にのぼる思いや祈りが、どれほど霊の世界で大きな働きをしているのかを知らないのです。

 

 病人の祈りは天の宝です。動けないからだで、神の御前に心を静め、すべてを主にゆだねた祈りは、神の御手を動かします。

 老人の祈りは天の慰めです。人生の経験を生かした知恵のこもった執り成しが、キリストのからだを支えます。

 子どもの純真な祈りは、天の喜びです。神が微笑まれ、キリストのからだに平安が訪れます。

 

 主は言われます。

 「わたし(神)の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力(神の力)は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第ニ12:9)

 

 神の御子イエス・キリストの恵みは、十分です。弱さのうちに、ご自身を完全に現わしてくださいます。

 自我に死ねば、キリストの御霊は自由に働かれます。人の知識も知恵も力も能力も、神の霊にまさるものではありません。

 自分の弱さを知る者は、御霊に自分自身を明け渡します。自分のうちに能力がないとわかっているからです。すると、神の御霊が、人にはできないことを成し遂げられるのです。

 

 弱さは恥ずかしいことではありません。弱さは情けないことではありません。弱さは神を体験する恵みなのです。神に任せる低い心をかたち造ってくれます。神にすがる純真な信頼へと引き上げてくれます。神とともに歩む信仰の道を歩ませてくれます。

 

 「ですから、私(パウロ)は、キリストの(御霊の)力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント第ニ12:9)

 

 パウロは言います。

 「私(パウロ)は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私(人)が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第ニ12:10)

 

 かっこうの良い器官は人々に賞賛されますが、神の御前にすわって神の平安を得る機会が少ないのかもしれません。神の恵みを伝えながら、その心は神の恵みに飢え乾いているのかも知れません。あるいは、飢え乾いていることの自覚のないまま忙しくしているのかも知れません。

 

 見栄えのしない器官が、自分自身ではなく神に目を仰ぐならば、小さい者をも愛してくださる、神の大きな愛に感動することでしょう。自分の小ささや弱さではなく、神の愛の確かさと神の恵みの大きさに圧倒されることでしょう。

 神の愛に触れ、神の愛と恵みに感動する者の心には、感謝の泉が湧きます。感謝には、喜びと賛美が伴います。その人は、神を知る者となるのです。

 

 神を知る者の感謝と賛美と祈りとは、キリストのからだを健やかにします。神を知る者の喜びは、キリストのからだの力となります。

 

 ということは、どういうことになりますか。比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。

 弱さを覚える人々の存在は、キリストのからだの中に、神の愛と憐みと慰めとを呼び込みます。そして、神の恵みは、キリストのからだの各部分が互いにいたわり合い、愛を育むからだに成長させられるのです。

 

 主は言われます。

 「わたしの恵み(キリストの恵み)は、あなたに十分である。というのは、わたしの力(キリストの御霊の力)は、弱さのうちに完全に現われるからである。」