ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救われるのは御霊の教会

 

 十字架に掛かられたイエスが死から甦り、弟子たちに現われました。キリストの復活のからだは、イエスの肉のからだとは異なっていました。それゆえ、最初にお会いしたマグダラのマリアは、イエスだとわかりませんでした。「マリア」と語られた時に、目の前におられる方が十字架で死んだイエスだとわかった次第です。

 

 顔は、肉体のときのイエスの顔ではなかったようです。しかし、復活のイエスを見て、弟子たちは、死んだイエスが甦られたことを知ったのでした。

 

 かつて、イエスは、弟の死を悲しむマルタに言われました。

 「わたし(神の御子イエス)は、甦りです。いのちです。わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、死んでも生きるのです。

 また、生きていてわたし(復活のキリスト)を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25,26)

 

 マルタはイエスに答えて言いました。

 「はい。主よ。私は、あなた(イエス)が世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:27)

 ナザレのイエスが、神の御子キリスト(神がイスラエルに遣わされたメシア)であると信じている、とマルタは答えたのです。

 

 イエスがマルタに、「あなたの兄弟(弟ラザロ)は甦ります。」と言われると、マルタはイエスに言いました。

 「私は、終わりの日の甦りの時に、彼(弟ラザロ)が甦ることを知っております。」(ヨハネ11:23)

 

 マルタはイスラエルに伝えられている、救い主(神の子キリスト)についての知識のあるユダヤ人でした。

 しかし、イエスは知識ではなく、神の御力を話されたのでした。イエスは、マルタの目の前で、死んだラザロを今甦らせると言われたのでした。

 

 弟は死んで墓に入っています。もう、四日も経っているのです。

 マルタの妹マリアはイエスに言いました。

「主よ。もしここに(イエスが)いてくださったなら、私(マリア)の兄弟(弟のラザロ)は死ななかったでしょうに。(イエスは、多くの病人を癒されたキリストなのですから。)」

 

 イエスを主キリストと告白する信仰を持ちながら、弟の死を嘆き悲しみ、異邦人のように希望のないご自分の民(ユダヤ人)を御覧になると、霊の憤りを覚えられ、心の動揺を感じられたイエスは、涙を流されました。

 

 先祖に約束しておられた神の子キリストが来られているのです。イスラエルは大いに喜んで、神をほめたたえ、神の御子を大歓迎してくれるはずではないですか。しかし、ユダヤ人の心は冷めていました。

 もし、この時代にアブラハムがいたら、盛大に祝うことでしょう。

 もし、ダビデがこの時代にいたら、民に喜び喜べと叫んで、国あげて神の御子を祝い楽しむことでしょう。

 

 しかし、イエスに愛されている、またイエスを愛しているマルタもマリアも、地上の悲しみでうなだれています。その目は、悲しみと失望でふさがれており、愛するイエスを見る目には輝きがなく、涙でかすんでいます。

 

 イスラエルに羊飼い(民を神に導く牧者)はいないのでしょうか。

 イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、御使いは夜、野宿で羊の群れを見守る羊飼いたちに現われて告げたではありませんか。

 「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 きょうダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがた(ユダヤ人)のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト(神の子)です。」(ルカ2:10,11)

 

 主キリストがイスラエルに来られたのです。イスラエルを贖い、慰めを与える救い主がユダヤ人を救うために来ておられるのです。羊飼いたちは、神を崇め、賛美しました。

 しかし、民の牧者(祭司たち)は民に救い主が来られたことを告げることができません。彼らは、イエスをキリストと信じることができないのです。イエスは騙す者であると民に偽りを教えてイエスを疑わせている祭司たちには、民を救い主(神が遣わされた神の御子イエス・キリスト)へ導くことができません。

 

 メシアを待ち望んでいたユダヤ人たちは、真理を悟ることができません。彼らの思いは暗く、目の前のイエスにある神の栄光を人間の信仰でしか見ることができません。真理の光を見ることを祭司たちに妨げられているのです。

 

 イエスをキリストと告白しながら、イエスに神の御力を重ね合わせてはいません。イエスを仰ぎながら、自分の信仰でイエスに限界を見ていたのです。目の前のイエスに、死から甦るキリストを重ねる信仰にまで至っていなかったのです。肉なるイエスにより頼んでいたのです。

 

 しかし、イエスは神の御子であり、聖霊の御力に満ち満ちたお方でした。

 アブラハムは、神の御力を信じていました。イサクを燔祭に献げるとき、神を信じて献げました。

 「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクを献げました。彼は約束(子孫を祝福すること)を与えられていましたが、自分のただひとり子を献げたのです。

 神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫(アブラハムの子孫)と呼ばれる。』と言われたのですが、彼(アブラハム)は、神には人(イサク)を死者の中から甦らせることもできる、と考えました。それで彼(アブラハム)は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」(へブル11:17-19)

 

 アブラハムには神への揺るぎない信仰がありました。アブラハムの霊は神を見ていました。人にできないことも、神にはできるという信仰があったのです。

 

 イエスは言われました。

 「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)

 「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

 

 アブラハムの子孫のユダヤ人たちには、アブラハムのような信仰がなかったのです。神は、信仰の父アブラハムに約束したとおり、イスラエルに救い主を遣わされていました。

 アブラハムは、キリストを見ていないのに、信じました。

 イエスを見たユダヤ人たちは、目の前にキリストを見ているのに半信半疑でした。

 

 イエスは、ラザロの墓の前で、「ラザロよ。出て来なさい。」と大声で叫ばれました。すると、死んで四日経っていたラザロが、遺体の納められた時の状態、すなわち、手と足を長い布で巻かれ布切れで包まれたままで出て来ました。

 ラザロは甦ったのです。イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じました。

 

 アブラハムは見ずして信じましたが、ユダヤ人たちは見て信じたのです。

 イエスが死から復活したことを聞いても信じることのできなかった弟子のトマスは言いました。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れてみなければ、(それがイエスだということは)決して信じません。」と言いました。

 

 八日後に、イエスが弟子たちの中に立って、トマスに言われました。

 「あなた(トマス)の指をここにつけて、わたし(復活のキリスト)の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

 この時、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た。」と言った言葉を、初めてトマスは信じたのでした。

 

 イエスは、トマスに言われました。

 「あなた(トマス)はわたし(復活のキリスト)を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

 

 イエスは弟子たちが見ている間に、天に上って行かれました。そして、父からキリストの光栄を受けられました。それで、約束どおり、弟子たちに聖霊をお注ぎになられました。

 

 聖霊を受けた弟子たちの信仰は以前とは全く異なりました。見えないものを見るようにして信じる信仰者となったのです。彼らは、御霊の信仰によって、キリストに従う弟子となったのでした。御霊の声を聞き、御霊に教えられ、御霊に導かれる、新しい人(御霊の人)に変えられたのです。

 

 神の御子イエスがイスラエルに来られたのに、ユダヤ教徒たちはそれを信じることができませんでした。

 ユダヤ教徒に遣わされたキリストは、祭司やパリサイ人たちから騙す者と非難されつつ、弟子たちとともにユダヤ教ナザレ派の群れとなりました。

 ユダヤ教ナザレ派は、キリストの御霊を受けるとユダヤ教徒から迫害されて、キリストを主とする新しい教会を御霊によってつくりました。

 使徒たち(ユダヤ人)がつくった教会は、異邦人信者に迫害されて、次に、異邦人信者たちがユダヤ教の流れを排除した異邦人のキリスト教会をつくりました。

 

 聖霊が注がれて御霊がつくった教会は、御霊を排除したキリスト教会に変貌しました。

 イエス・キリストを迎えたユダヤ教徒がキリストの救いを否定して、救いが異邦人のキリスト教会に移されたように、終わりの時代には、キリストの御霊を否定するキリスト教会から救いがほかに移されることもあるでしょう。

 

 日本の神道には、キリスト教会よりも、神の霊をとらえる霊的な感性を持つ人々がいます。

 日本の仏教には、キリスト教会よりも、ことばの深みを知り、霊的な気づきに素直に応答する人々がいます。

 十字架の意味がわかったとき、彼らのほうが神が招いておられる御霊の教会に入る可能性があります。彼らのうちには、純粋に真理を求めている人々がいるからです。

 

 キリストの贖いの血は、全世界を覆っており、それを受け取る者を神は招いておられます。それは、キリスト教だけではありません。神道や仏教の中にも、神の民はいるでしょう。ユダヤ教やそのほかの宗教も、然りです。

 救われるのは、キリストの御霊を受けて神とひとつ心になる人々です。

 初めの雨で、キリストの御救いがユダヤ教の囲いから出て異邦人に及んだように、終わりの雨では、御霊の救いがキリスト教会の囲いから出て神道や仏教などほかの宗教にも及ぶのではないかと思います。

 

 救われるのは、御霊の声を聞いて、御霊に聞き従う人々の群れです。

 それは、キリスト教会の人もいるでしょう。神道の人、仏教の人、イスラエルを祝福する人、愛のある人、憐れみ深い人、心のきよい人、柔和な人、親切な人、神を畏れる人など、神の御霊は、人の心を見て、神の子羊の罪の贖いの真理を知らせ、御霊の教会に招いておられるのではないかと思います。