神はイスラエル(ユダヤ民族)と契約を結び、奴隷の家エジプトからイスラエルを連れ上ったモーセに、シナイ山で二枚の石の板に神の指で書かれた律法(十戒)をお与えになりました。
神の民とされたイスラエルに、神は、モーセを通して、様々な戒めや規定を与え、守るように命じられました。
全知全能の神は、イスラエルの神となられました。天地万物を造られた創造主が、一つの民族の神となられたのです。唯一イスラエルは、まことの生ける神、人を造られた全能の神、主の御声を聞き、主の御計画を知り、神の栄光のために仕える、神の民です。
世が悪いことに傾き、神に背を向け暴虐に満ちても、神は、御自分の民イスラエルゆえに、地を滅ぼすことを思い止まられます。
ユダヤ人は、モーセに望みを置いています。ユダヤ民族を神の御前で神の民イスラエルとし、神がイスラエル民族の神となられるために、神と契約を結んだイスラエルの指導者です。
ユダヤ人の祭司たちは、モーセに与えられた、イスラエルが守るべき神の律法を民に守らせるために、心を砕きました。
神の戒めや規定、神が命じられた記念の祭り等、ユダヤ人は、世界に離散した後でも、それぞれ離散した国の中で、神と契約を結ぶ民族のユダヤ人として守り続けました。
神は、イスラエルに世を救うキリストを遣わすことを約束しておられました。神に愛されたイスラエルの王ダビデに、神は、ダビデの王座にとこしえの王が着座することを約束しておられます。
イエスは、ダビデの生まれたダビデの町ベツレヘムでお生まれになりました。
皇帝アウグストから、「全世界の住民登録をせよ。」という勅令が出ました。それで、ガリラヤの町ナザレから、ダビデの子孫のヨセフが、身重になった許嫁の妻マリアを連れて、登録のためにベツレヘムの町にやって来ました。
人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かっており、町はごった返していました。宿の客間はすべて埋まっていました。そこにいる間に、マリヤは月が満ち、与えられた家畜小屋でイエスを産んだのでした。
許嫁マリアは、ヨセフの子を生んだのではありません。結婚前に御使いガブリエルが現われて、処女マリアに聖霊によって神の子を身ごもることを告げられたのでした。
ヨセフの夢にも主の使いが現われて、許嫁の妻マリアの胎の子は聖霊による男の子であり、名をイエスとつけるように、と言いました。そして、「この方こそ、御自分の民(イスラエル)をその罪から救ってくださる方(キリスト)です。」(マタイ1:21)と告げたのでした。
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりに、マリアを妻として迎え入れ、胎の子イエスが生まれるまでマリアを知ることなく、生まれた子の名をイエスとつけました。
ベツレヘムでお生まれになったイエスは、父ヨセフと母マリアのナザレの町に住まれ、ナザレ人として成長されました。
イエスはナザレ人ですが、ベツレヘムの町でダビデの家系に住民登録された、ダビデの子でした。
さて、ユダヤ人たちが望みを置くモーセは、イスラエルに、重要な戒めを与えていました。この戒めは、律法の中で最も大切な命令でした。この一つの律法を守れば、すべての律法を守ったことになるという、肝要な律法でした。
イスラエル人に不可欠な律法でした。この律法を守らない者は、神と契約を結ぶイスラエル民族から滅ぼし絶やされるのです。
「モーセはこう言いました。
『神である主は、あなたがた(イスラエル)のために、わたしのようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たち(ユダヤ人)の中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」(使徒3:22、23)
モーセはイスラエルに言いました。
イスラエルの神が、イスラエルのために、奴隷の家エジプトから救い出して約束のカナンの地に連れ上るためモーセを立てられたように、ひとりの預言者(キリスト)を、ユダヤ人の中からお立てになる。その預言者に聞き従わない者は、祭司であっても、レビ人であっても、だれであっても、神の御救いが約束されたイスラエル民族の中から滅ぼし絶やされる。
あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる国語の人々は、アブラハムのひとりの子孫(キリスト)によって、祝福されるのです。
モーセのようなひとりの預言者は、神がアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せられた、祝福の基である、救い主キリストです。
ユダヤ人は、ユダヤ人の中から出たこのキリストに聞き従わなければ、御救いを失います。すべての民族は、このキリスト(神の御子イエス・キリスト)によって、御救いを受けるのです。
御救いとは、罪の世から救い出されて、永遠に生かされる天の御国に入ることです。
神がイスラエルに立てられたキリストは、ユダヤ人の中から出た、世の罪を取り除く神の子羊であり、生かす御霊を授ける神の御子イエス・キリストです。
神は、神の御子イエス・キリストに聞き従う者に永遠のいのちを得させてくださいます。律法の外にいた人々をも、天の御国に入れてくださるのです。
なぜならば、キリストが罪の贖いをしてくださったので、神は、キリストを信じる者の罪を赦され、キリストの贖いの血によって義としてくださるからです。
神と契約を持つイスラエルは、この神の憐れみの律法を守っていません。それゆえ、自分で律法を守り、律法の違反に怯えています。
民族的救いが約束されたイスラエルは、律法を守り、神の規定と定めを守ることで、神の民であると自負していますが、彼らは、神の御救いの道を歩みながら、いのちの道の狭き門をくぐっていません。
その狭き門こそ、モーセのようなひとりの預言者(キリスト・イエス)に聞き従うことで入ることのできる門です。
ユダヤ人の中から出たキリスト(神の御子イエス・キリスト)は言われます。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:9、10)
イエス・キリストこそが、天の御国に入る門なのです。
イエス・キリストは、ご自分のいのちを羊に与えて羊にいのちを得させ、天の御国で生きる新しい創造とするために生かす御霊を授けて、永遠のいのちを得させる救い主です。
神は、救い主イエス・キリストに従う者に、真理の御霊をお与えになって、真理を教え、良いみことば(イエスのことば)で養い、律法から解放された自由の子とされます。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
牧者ではなく、また、羊の所有者でない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:11ー13)
イエス・キリストは、良い牧者です。多くの羊のために、ご自分のいのちを捨てて、狼(悪い者)と戦い、悪魔の死と滅びから羊を救い出してくださいます。
キリストを名乗る偽キリストたちは、狼を見ると、自分のいのちを守るために、羊を置き去りにして、逃げて行きます。羊を守りません。ましてや、羊のために自分のいのちを捨てることなど、決してありません。
偽キリストは、羊の脂肪を食べ、羊の毛をまとい、肥えた羊を屠りますが、羊を養いません。かえって力ずくと暴力で羊たちを支配します。
神は、これらの偽キリストをさばかれます。
羊の所有者ではないのです。羊の所有者は、イエス・キリストただひとりです。キリストは、魂の飼い主です。魂のまことの所有者です。
まことの所有者である神の御子キリスト・イエスの御手の中に帰ると、魂に安らぎを得ます。
イスラエルの御救いの約束は、神の御子イエス・キリストによって成就します。
イエス・キリストは、天の御国に入る門なのです。イエス・キリストを通してでなければ、天の御国のいのちの神のもとに行くことはできません。
イエスは言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通して出なければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
イエス・キリストが、天の御国に入るいのちの道に導くキリストであり、真理の御霊を授けるキリストであり、永遠のいのちを得させるキリスト(救世主)なのです。