ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人目にかくれたユダヤ人

 

 パウロはユダヤ人たちに言いました。

 「私の福音(パウロが理解しているキリストの福音)によれば、神の裁きは、神が(神のひとり子)キリスト・イエスによって人々の隠れたことを裁かれる日(最後の裁きの日)に、行なわれるのです。(神が救い主として遣わされた神の子羊イエス・キリストが裁きの主旨となります。)

 もし、あなたが自分をユダヤ人(神に選ばれた民)ととなえ、(神が与えられた)律法を持つことに安んじ、神(の民であること)を誇り、(神の)御心を知り、成すべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ(何が重要であるかを律法に教えられて、それを判別し)、また、知識と真理の具体的な形(創造主であられるまことの神を知る民)として律法を持っているため、盲人(真理を見出せない思いの暗い者)の案内人、闇の中にいる者(罪人)の(御救いの)光、愚かな者(真理を悟れない人々)の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。

 律法を誇りとしている(律法は神の民として選ばれた民族の誇りであるとしている)あなた(ユダヤ人)が、どうして(神の)律法に違反して、神を侮るのですか。

 これは、『神の(聖なる)名は、(神の律法を違反する)あなたがた(神の民ユダヤ人)のゆえに、(聖なるまことの神を知らない)異邦人の中で汚されている。(異邦人はユダヤ人たちを見て、あれが神の選ばれた民かと言って、ユダヤ民族を選ばれた神を卑しめ侮っている。)』と書いてあるとおりです。

 もし(ユダヤ人が本当に神の)律法を守るなら、(神の命令により他の民族〈異邦人〉と聖別するためにユダヤ人が受けている)割礼には価値があります。(さすが、まことの神と契約を結んでいる神の民であると、ほかの民族もユダヤ民族を敬い、ユダヤ人を見て、まことの神を知ることでしょう。)

 しかし、もしあなた(全能の神と契約を結ぶユダヤ人)が(神の)律法にそむいている(全能の神の律法を持たない、神を知らないほかの民族と同じ生き方をしている)なら、あなたの割礼(神の民であるユダヤ人のしるし)は、無割礼(意味のないもの)となったのです。

 もし割礼(神の民であるしるし)を受けていない人(異邦人)が(全能の神の)律法の規定を守るなら、割礼(肉体につけられた神の民のしるし)を受けていなくても、割礼を受けている者(神と契約を結ぶ神に選ばれた民)とみなされないでしょうか。

 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者(異邦人や異教徒)が、律法の文字(聖書)と割礼(神との契約のしるし)がありながら律法にそむいているあなた(ユダヤ人、すなわち神と契約を結ぶ民)を、さばくことにならないでしょうか。

 外見上の(律法の下にいる)ユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の(肉の)からだの割礼が割礼(神の選びのしるし)なのではありません。

 かえって人目に隠れたユダヤ人(神の掟を守る人々)がユダヤ人(神と契約を結ぶ選びの民)であり、文字(律法)ではなく、(神の子羊イエス・キリストが授ける、死から復活したキリストの)御霊による、心の割礼(全能の神が与えられる新しい律法〈真理の御霊〉を受けること)こそ(まことのとこしえの)割礼です。

 その誉れ(神の選び)は、人(ヤコブの血肉の子孫のユダヤ民族)からではなく、神(生ける神の霊、すなわちキリストの御霊による選び)から来るものです。」(ローマ2:16-29)

 

 イエスは、イエスが主キリストであるしるしを見たいと言う律法学者やパリサイ人たちに言われました。

 「悪い、姦淫の(まことの神ではない神々を慕う)時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子(救い主イエス・キリスト)も三日三晩、地の中(墓の中)にいるからです。(イエスが十字架で死に墓に入って、三日目に甦られることを言われました。)

 ニネベの人々が、さばき(最後の裁き)のときに、今の時代の人々(イエス・キリストを信じる人々)とともに立って、この人々(神の子羊イエスがキリストであることをを信じないユダヤ人たち)を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で(神に遣わされたユダヤ人の預言者ヨナの説教を聞いて)悔い改めたからです。

 しかし、見なさい。ここに(律法学者やパリサイ人たちの前に)ヨナよりもまさった者(モーセが聞き従わなければならないと命じた預言者キリスト)がいるのです。

 南の女王(シェバの女王)が、さばき(最後の裁き)のときに、今の時代の人々(イエス・キリストを主と告白する人々)とともに立って、この人々(神の御子イエス・キリストを信じないユダヤ人たち)を罪に定めます。なぜなら、彼女(シェバの女王)はソロモンの知恵(全能の神の知恵)を聞くために地の果てから来たからです。(シェバの女王は、全能の神のことばを慕い、神のことばを求めて、イスラエルの地にやって来たのです。)

 しかし、見なさい。ここに(ユダヤ人たちの前に)(全能の神の知恵を語る)ソロモンよりもまさった者(全能の神が遣わされた神のことばであるメシア〈神の御子イエス・キリスト〉)がいるのです。」(マタイ12:39-42)

 

 イエスは続いて言われました。

 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。(神の子羊イエスの罪の贖いの血が流されると、イスラエルは贖われます。)

 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこ(神の子羊イエスの血で律法の違反による罪が贖われたイスラエル)に住みつくのです。そうなると、その人の後の状態(七つの悪霊が住みついた状態)は、初め(キリストの十字架の血により罪が贖われれる以前のイスラエルの状態)よりもさらに悪くなります。(神の小羊イエス・キリストを信じることなく、神が約束どおりに遣わされたメシア〈神の御子イエス・キリスト〉に聞き従わないイスラエルは、御救いの望みを失うからです。)

 邪悪なこの時代(神の御子イエス・キリストを迫害し殺害する時代とともに、イエス・キリストを主と告白するキリスト信者を迫害し殺害する終わりの時代)もまた、そういうことになるのです。」(マタイ12:43-45)

 

 神の御救いが約束されていたユダヤ民族が、神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストに聞き従うことなく、国を失い、世界の国々に離散しました。

 イエス・キリストの贖いの血によって罪が贖われたイスラエルが、子羊の贖いの血を踏みにじって、国も御救いも失いました。

 しかし、千八百年以上の時を経て、1948年にユダヤ人の国が先祖の地イスラエルに再建されました。ユダヤ人の中に、ナザレのイエスを主と告白し、神が遣わされたキリストを受け入れる人々が現われたからです。

 ユダヤ人の中に、神がイスラエルに遣わされた神の御子イエスを信じなかったユダヤ民族の罪を悔い改めて、神と和解する人々が起こされたのです。神と和解したユダヤ人たちの「主」は、イエス・キリストです。彼らは、ナザレのイエスを神の御子「主キリスト」と告白するキリストの民なのです。

 

 彼らは、肉の割礼よりも、キリストの御霊による心の割礼が大切なことを知る人々です。モーセの律法を完成させた神の御子イエス・キリストの与えられる新しい律法(文字の律法ではなく、キリストの御霊が心に書き記す律法〈キリストの贖いの血とキリストの御霊を受けて聖霊の器となる〉)を受け、新しい契約を結ぶ人々です。

 

 神の御子キリストが与えられる新しい契約(キリストの御霊)が、御救いの契約です。

 ユダヤ民族は、神の瞳のように守られた神の民です。しかし、新しい契約は、アブラハムの血肉の子孫ヤコブの子孫ユダヤ民族とだけ結ばれる契約ではありません。ユダヤ人も異邦人もありません。神の御子イエス・キリストを信じる人々と結ばれる契約なのです。神の民でなかった人々(異邦人)もイエス・キリストにあって、神の民とされる、恵みに満ちた契約なのです。

 

 アブラハムの信仰の子孫(神が遣わすと約束された救い主、すなわちユダヤ人の同胞から出るキリストに聞き従う信仰の人々)と結ばれる契約なのです。パウロは、アブラハムの信仰の子孫のことを、「人目に隠れたユダヤ人」と呼びました。

 人目に隠れたユダヤ人(キリストの兄弟)こそが、御救い(永遠のいのち)を受けるユダヤ人(とこしえの神の民)なのです。