ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

あとの者が先になり先の者があとになる

 

 「イエスは彼ら(弟子たち)に言われた。

 『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって(悪魔が穴に閉じ込められて悪魔のいない世界になるとき)人の子(神の子羊イエス・キリスト)がその栄光の座(贖われた「とこしえのイスラエル王国」の王座)に着く時、わたし(神の子羊イエス)に従って来たあなたがた(弟子たち)も十二の座に着いて、(イエス・キリストが王となるとこしえの)イスラエル(王国)の(贖われた)十二の部族をさばくのです。

 また、わたしの名(神の御子イエス・キリストの御名)のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて。その幾倍も受け、また永遠のいのち(天の御国)を受け継ぎます。(イエス・キリストの福音のために、この世のものを捨てた者は、その幾倍もの良きもの〈永遠に価値のあるもの〉を天の御国で受け取るのです。)

 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:28-30)

 

 イエスはたとえを話されました。

 「ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。

 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」(マタイ21:28-30)

 

 返事の良かった兄は、父の願ったとおりにしませんでした。しかし、返事の悪かった弟は、あとから悪かったと思って、父の願ったとおりにしたのです。

 父が喜ぶのはどちらでしょうか。

 父の願ったとおりにした弟のほうです。父の心を満足させるのは返事の良い悪いではなく、父の願ったとおりにする者です。

 神もまた、神を賛美し讃えながら神に聞き従わない者よりも、神につぶやきながら悪かったと思い神のことばに従う者を良しとされます。

 

 イエスは言われます。

 「まことに、あなたがた(祭司長、民の長老たち)に告げます。取税人や遊女のほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。

 というのは、あなたがたは、(バプテスマの)ヨハネが義の道(神のキリスト〈ナザレのイエス〉を証する罪の赦しと永遠のいのちを知らせる教え)を持って来たのに、彼(バプテスマのヨハネ)を信じなかった。(祭司長や民の長老たちは、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けなかった。)

 しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。(取税人や遊女たちはバプテスマのヨハネのことばを信じて、自分たちの罪を認め悔い改めて水のバプテスマを受けた。)

 しかもあなたがた(祭司長や民の長老たち)は、それを(取税人や遊女たち、また、多くのユダヤ人たちが罪を悔い改めて水のバプテスマを受け、神が遣わされるキリストにお会いする備えをしたのを)見ながら、あとになって(神が遣わされたヨハネの水のバプテスマを拒んだのを)悔いることもせず、彼(神が遣わされた主の道を用意する預言者ヨハネ)を信じなかったのです。」(マタイ21:31,32)

 

 祭司長や民の長老たちは、公に神に仕え、また、民を導く指導者たちです。神に権威を与えられている人たちです。神の許しがなければ、だれもイスラエルの中で権威を持つことはできないからです。

 取税人や遊女たちは、神の民であるイスラエルの律法(モーセの律法)を守れない人々です。律法の外にいる人々です。聖なる神の民に数えられていない人々です。

 

 イスラエル人は、律法の下にいるユダヤ人を聖なる民イスラエルと捉え、律法の外にいるユダヤ人を異邦人と同じ罪人として捉えました。

 律法の下にいるユダヤ人は、自分たちは神に従う正しいイスラエル人であり、取税人や遊女は神にそむく罪人であると信じていました。

 

 ところが、イエスは、正しいと思われていた祭司長や民の長老たちを咎められます。彼らは律法を守っていながら、心は神とともにありませんでした。

 「行きます。お父さん。」と答えた兄のようでした。

 

 取税人や遊女たちは、自分たちの行ないの悪いのを恥じ、暗い生き方を悔い改めて主にお会いする恵みにあずかりたいと考え、罪を言い表わして悔い改め、神の願ったとおりに行ないました。

 「行きたくありません。」と答えたあとで、悪かったと思い、父の願ったことを行なった弟のようでした。

 

 自分を正しいとする律法の下にいる祭司長や民の長老たちは、神が遣わされたバプテスマのヨハネを信じず、神が用意された悔い改めの(水の)バプテスマを受けることなく、また、神が遣わされたキリストを信じませんでした。

 こうして、祭司長や民の長老たちは、モーセの律法「私たち(ユダヤ人)の同胞から出る私(モーセ)のような預言者に聞き従わなければならない。」にそむいたのでした。彼らは、生ける神のことば(ヨハネやキリストのことば)ではなく、律法を守る自分たちを信じたのでした。

 

 律法の外にいた取税人や遊女たちが、神に遣わされたバプテスマのヨハネのことばを信じて、罪を悔い改めヨハネから水のバプテスマを受けました。また、神が遣わされたナザレのイエスを神の御子キリストだと信じました。

 救いを求め神を魂で捉えた彼らは、モーセの「私(モーセ)のようなひとりの預言者に聞き従わなければならない。聞き従わなければ、聖なるイスラエルから断ち切られる。」との命令に従っていたのです。

 

 民の先頭に立っていた祭司長や民の長老たちユダヤ教徒は、キリストの御救いから外れました。

 イエスは、律法の下にいる者に言われました。

 「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。おまえたち蛇ども(悪魔の霊に従い悪魔のことばを語る者たち)、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナ(永遠の火の池)の刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23:27,33)

 イエスは、彼らが、神が遣わされた預言者やイエス・キリストの弟子たちを迫害するのを知っておられたのです。彼らの霊は、生ける神御自身を見ていなかったのです。

 

 彼らは、目の見えぬ手引きどもなのです。自分も悟らず、民に真理を悟らせない忌まわしい者です。

 こうして、見の見えない手引きどもに引かれたユダヤ人たちはみな、神の敵となりました。ユダヤ人たちが、神の御子イエス・キリストを信じなかったことにより、神の御救いは異邦人に向かいました。

 

 取税人や遊女たちのほうが、律法の下にいるユダヤ人よりも先に(信仰によって)神の国にはいっているのと同様に、神の子羊イエス・キリストを信じた異邦人のほうが、救い主の約束を受けていたユダヤ教徒よりも先に神の国にはいっているのです。

 

 イエスは言われます。

 「わたし(神の御子イエス・キリスト)に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者がはいるのです。

 その日には、大勢の者がわたし(主イエス・キリスト)に言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

 しかし、その時、わたし(イエス・キリスト)は彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを知らない。不法をなす者ども。わたし(救い主キリスト)から離れて行け。』(マタイ7:21-23)

 

 終わりの日には、聖霊が注がれます。聖霊を否むキリスト教徒から御霊は離れ、キリスト教会の外にいる人々、真理を求める人々や異教徒たちに聖霊が注がれるでしょう。

 

 真理に飢え乾く者、また聖書を知らない彼らは、霊によって御霊を捉えます。そして、御霊を受けて御救いを受けるでしょう。

 しかし、聖書のことばを知るキリスト教徒たちは異教徒のうちで働く御霊の働きを怪しみ、キリスト教会以外でなされているわざは聖書の神のわざではないと御霊を否定するでしょう。

 こうして、御霊を信じず、聖霊に逆らう冒瀆の罪を犯したキリスト教徒たちは、取り残されます。イエス・キリストを信じなかったユダヤ人たちが退けられて、神の御子イエス・キリストを信じた異邦人たちが御救いを受け取ったのと同様に、聖霊を受けた異教徒たちが御救いを受け、聖霊を受け取らないキリスト教徒たちは残されるのです。

 聖書の神の御救いの中にはいないと思っていた異教徒たちが悔い改めて御救いを受け、先に神の国にはいることでしょう。

 

 また、御霊の力でわざを行なっていると思っていたキリスト教徒が、実は神の御霊に聞き従っていたのではなく、賜物を自分の栄光のために働かせていた場合、神は、その人を退けられます。

 キリスト教会が永遠のいのちを受けると信じていた人々は、「なぜ私たちを(いのちの木のある)都の中に入れてくださらないのですか。」とイエスに向かって言うでしょう。彼らは御霊を敬っていなかったのです。御霊の賜物を使いながら、御霊にへりくだっていなかったのです。

 

 イエスのたとえ話に出て来る、ぶどう園の主人は、一日一デナリの約束で朝から一日中働いていた労務者にも、朝九時から働いた労務者にも、十二時から働いた労務者にも、三時から働いた労務者にも、夕方の一時間しか働かなかった最後に来た労務者にも、等しく一デナリの賃金を与えました。

 朝早くから働いていた労務者たちは主人に文句を言いました。一日の賃金と数時間の賃金、また一時間の賃金と同じとはどういうことでしょうか。

 主人は言いました。「私はあなたに何の不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」(マタイ20:13-15)

 

 イエスは言われます。

 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)

 

 キリスト教会で何十年も神に仕えて来たクリスチャンも、また、聖書の教えに忠実であったユダヤ人も、終わりの日に聖霊が注がれて神に立ち返る異教徒たちも、みな、同じ一デナリを受けるのです。すなわち、神が約束された永遠のいのちを受けるのです。

 

 クリスチャンは、聖書の知識があることにあぐらをかいてはいけません。神の御救いは、真理の御霊とともにあります。キリストの御霊が永遠のいのちだからです。

 御霊を受ける人々、御霊に聞き従う人々、御霊に導かれる人々が永遠のいのちを受ける人々です。異教徒であっても、御霊が注がれ悔い改めて神に立ち返るならば、永遠のいのちを受けるのです。

 

 これから、あとの者たちの救いの時が始まるのです。